なぜ災害のたびに「迷惑ボランティア」が“批判”されるのか 日本にはびこる「冷笑主義」の正体
「構造」ではなく「個人」が批判の対象となる
――震災が起こるとシニシズムが強くなる、という傾向はあるのでしょうか。 津田教授:災害が起きたときには、被災地にいない個人も災害に関する大量の情報に触れることになります。そして、「災害の情報に触れること」自体がストレスとなるのです。 災害について「自分もなにかしたい」と思っても、大多数の人はなにもできることはありません。そのため、フラストレーションだけが溜まっていきます。そのフラストレーションをぶつける対象として「迷惑ボランティア」が選ばれているという面もあるでしょう。 アメリカの政治の世界では、市民のフラストレーションやストレスが大統領にぶつかることを避けるために、あえて批判されやすい側近を用意してその人に批判を集中させる「避雷針」理論が用いられることがあると言われます。 多くの場合には、市民のフラストレーションは政府や政治家にぶつけられます。しかし、マスメディアであってもボランティアでも、人々から「気に食わない」と思われたらストレスのはけ口となる……といった構図があるのです。 ――「フラストレーションのはけ口」になるというのは、先日に漫画家の芦原妃名子さんが亡くなった、「セクシー田中さん」の実写ドラマの原作改変問題に関しても起こっていたように思えます。 津田教授:「セクシー田中さん」事件は、関係者たち個々人にもそれぞれ一定の責任はあるでしょうが、根本的には漫画とドラマというメディア制作の違いの摩擦から起きた事件だと考えています。特定のだれかが悪いというよりかは、構造の問題です。 コミュニケーション論研究者のシャント・アイエンガーは、「社会で起こっている問題の構造を“理解”することは、多くの人にとって難しい」と同時に「社会で起こっている問題について、“意見”を持つということは簡単である」という点を指摘しました。 社会問題についてなにか意見したいと思った人は、問題の背景にある構造を深く分析するのではなく、特定の個人に責任を帰属させる意見を言ってしまいがちです。 今回の事件についても、構造の問題を理解するのではなく個人の問題に還元させることで事態をわかりやすく単純化させたうえで意見を言う人が大多数であるから、「脚本が悪い」という声が目立つ、という構図があるでしょう。 ――「構造」に対して怒りやその他の感情を抱くことは難しいが、個人に対しては怒りなどの感情を抱きやすい、という側面もあると思います。 津田教授:2011年の東日本大震災とその後に起こった原発事故についても、原発は戦後日本の歴史や経済・政策が絡む非常に複雑な問題なのに、単純化と個人攻撃が目立ちました。 構造の問題について議論するためには「複雑なこと」について考えられる環境が必要です。 現在のTwitterのような環境は複雑な議論をするのにまったく向いていないため、個人攻撃が盛んになってしまうのでしょう。