長い下積みを経て活躍した大江匡衡
■高い学識を誇りながら長かった下積み時代 大江匡衡は952(天暦6)年に大江重光の子として生まれた。生年については953年の説もある。母は藤原時用の娘。 大江の一族は代々学問に秀でた家系で、祖父の大江維時(これとき)は文章博士や大学頭など学者としての要職を歴任し、中納言まで務め、公卿となっている。 975(天延3)年に文章生となる(973年の説もある)が、歌人の赤染衛門(あかぞめえもん)と結婚したのはこの頃のことといわれている。匡衡から申し込んだ結婚だったようで、衛門は匡衡を「おもひかけたる人(私に思いをかける人)」と表現している。 二人の夫婦仲はとてもよかったらしく、紫式部は衛門を「匡衡衛門と呼ばれている」と紹介している(『紫式部日記』)。つまり、二人は一心同体のような仲睦まじさだったようだ。 一方で、しばらく官位の進展のなかった自身の不遇を嘆く場面が度々あったようで、そうした類の歌も残されている。 ようやく出世を果たしたのは997(長徳3)年。この年に、匡衡は居貞親王の学問指南役となる東宮学士に任じられた。翌年には従四位下、式部大輔。そもそも世間からの学者としての評価は高く、一条天皇の侍読、すなわち天皇に学問を教える家庭教師のような役割も任じられるほど、当代随一の学者だった。 学者としてのみならず、政治家としての手腕も高く評価されるのが、尾張国司の赴任だ。生涯で3度任命されたといわれており、そのうちの2度は現地に赴いたらしい。 この時に農民の嘆願を受けた匡衡は、木曽川の支流となる河川の改修を行なった。度重なる洪水や飢饉などに現地の人々が苦しめられていたにもかかわらず、前任者はまったく手をつけなかったという。 そして匡衡が用水路の整備に乗り出したことで、河川の氾濫は解消。農民は匡衡の功績を称えるため「大江用水」と名付けたとの逸話がある。真偽については賛否のあるところだが、同時期に大規模な灌漑用排水路の工事が行なわれたことは間違いないようだ。 晩年は病気がちで、薬を服用する日々だったらしい(『述懐古調詩』)。侍読を務めていた一条天皇の一周忌の願文すら引き受けられないほど衰弱していたという。1017(長和元)年に死去。 白河院政時代の官僚である大江匡房(まさふさ)、鎌倉幕府の初期を支えた大江広元(ひろもと)は、匡衡の子孫として知られている。
小野 雅彦