元日経記者でAV女優…芥川賞候補2度の作家「“くだらない女”である私を聖人にしたい人の善意の裏の不気味」
■この世の多くは極端な悪人でも聖人でもない その後、ミソジニーと女性の権利が戦うような言語空間が出来上がるたびに、似たような現象をいくつか見ることになる。『Black Box』(文藝春秋)の著者でフリージャーナリストの伊藤詩織氏が当時TBS記者であった山口敬之によるレイプを実名で訴えた際、陳腐な嫌がらせやミソジニー丸出しの揶揄などのほかにも危険と感じる言説が一部あった。 自称漫画家による彼女の水商売経験を手酷く揶揄した風刺漫画「枕営業大失敗」など、誹謗中傷の類に入る嫌がらせが、伊藤氏を「男を籠絡(ろうらく)しようとして失敗し、悪あがきのように法に訴える悪人」に仕立て上げようとしたのと対照的に、彼女を過度に聖女にしてしまう言説も同時に生まれていたのだ。 たとえばTwitter上で、伊藤氏が勤めていたとされる米ニューヨークの「ピアノバー」について、その実態を知ってか知らずか「水商売のようなものとは違う」「キャバクラではない」「女性を武器に接客するわけではない」などと語るアカウントは当時多くあった。実際は「ピアノバー」は現地でのキャバクラ的接客業のことを指す。そしてピアノバーで働いていたことはもちろん、伊藤氏の被害を矮小化も正当化もすることではない。 「枕営業大失敗」が酷いミソジニーであることはそうであったとしても、彼女の経歴を清廉潔白に漂白してしまっては、擁護している対象が実際の彼女とかけ離れていく。実際はキャバクラ嬢であろうとソープ嬢であろうと枕営業であろうと、下衆な一テレビ局員にレイプされてよいわけはないのに、「彼女はキャバクラ嬢なんかとは違う」という擁護は、「キャバクラ嬢であればそういった危険にさらされてもいいのだ」と曲解されかねない。 それに、渦中で祭り上げられていく本人としても、自分の実態が誤解され、聖女のように仕立て上げられてしまえば、実際の生身の自分としての声をあげにくくなる可能性も大いにある。 そのように何かの象徴になった者は、自分を悪人として揶揄する嫌がらせの声と戦うと同時に、「味方」のふりをして自分を聖人に仕立て上げようとする一見善意の声にも抗わなくてはいけないことが少なくない。 女性であればなおさら、わかりやすいミソジニーを投げつけてくる差別主義者と、普段虐げられている自分らを代弁させようとしてくる輩から身を守らなくてはならない。彼らは全力で誰かを守ろうとするふりをして、その誰かに過度な役割を押し付けてこようとするのだ。民衆を導く自由の女神のような役割を押し付けられることだって、差別的な罵詈雑言を浴びせられるのと同じくらい窮屈で不自由なことであるかもしれないのに。 香港民主化デモが激化した際の周庭(アグネス・チョウ)氏にも、先般の都知事選での蓮舫氏にも、おもえばそういった危うい言説はつきまとっていた。もちろん、民衆として女神を待望すること自体は悪いことだとは言えない。それに、力強い女性の象徴として立つ彼女たちの存在に助けられる者がいることは間違いないだろうし、彼女たちを支え、擁護する声そのものは、もとはと言えば立派な理念や思想に基づいていることは多い。 フェミニズムや女性の権利のための声に問題があるわけでも、ミソジニーと戦おうとする態度に問題があるわけでもないが、極論や原理主義的になっていく思想に危険性があるのだ。どのような思想も宗教も、原理主義的になれば個人の好みや多様性を押しつぶす、排他的な危険性を持つことが多い。 この世には根っからの善人も悪人もいるのだろうが、大多数の者は極端な悪人でもなければ、当然聖人でもない。夢中になって展開していく言葉の中で、誰かを悪人に仕立ててしまっていないか、と自らを点検する者は結構いるかもしれない。それと同時に、誰かを過度に聖人に仕立て上げてはいないか、誰かに清廉潔白な理想像を押し付けてはいないだろうか、という点検も必要であると切に感じる。 少なくともかつてセックスワーカー擁護や反ミソジニーの、それ自体には特に問題のない言説の中で、立派で潔白で崇高な存在に押し上げられてしまった、一介のくだらない女として、そう思う。 ※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年10月18日号)の一部を再編集したものです。 ---------- 鈴木 涼美(すずき・すずみ) 作家 1983年生まれ。慶應義塾大学在学中にAVに出演。東京大学大学院社会情報修士課程を修了。修士論文が『「AV女優」の社会学』として書籍化。日本経済新聞社記者を経て、文筆家として活躍中。初の小説『ギフテッド』が第167回芥川賞候補になった。 ----------
作家 鈴木 涼美