子どもの遊びに必要な「無意味性」と「主体性」 --目的がないからこそ身に付く能力
今や、小中学生の2人に1人は近視になる時代。文部科学省によると、子どもが近視になる割合は増加し続け、特に低学年ほど近視になる子どもが増える傾向にあるという。さらに2024年9月には科学界の最高権威である全米科学アカデミーが、「近視を食い止めることは世界的な課題」だと発表している。 しかし、日本ではこの事実はほとんど知られていない。そこに警鐘を鳴らし続けているのが、眼科医の窪田良氏だ。 今回は、『近視は病気です』(東洋経済新報社)の著者でもある窪田氏と、日本を代表するアスリートであり、「子どもの健全な成長のための外あそびを推進する会」のメンバーでもある為末大氏が、子どもの外遊びをテーマに4回シリーズで対談する。 【この記事の他の画像を見る】
長年の知り合いで、気心の知れた2人。第3回では、遊びが持つ可能性を語り合う。 ■目的のために何かをするのは「遊び」ではない 窪田:為末さんは「外あそび推進の会」のメンバーとして、外遊びを推奨されていますが、そもそも外遊びとは何か。どのように捉えていますか? 為末:とても広い意味で捉えています。屋外で子どもたちが何かをして、楽しく遊んでいること。それが、山に行ってたき火をするのでも、秘密基地を作るのでも、鬼ごっこでも、スポーツをするのでも、すべて含まれるんじゃないかと思います。
遊びの定義に関しては、『ホモ・ルーデンス』という本の中で、著者のヨハン・ホイジンガが「自発的で楽しいから行うのが遊びであり、何らかの目的のために行うのは遊びではない」といったことを書いています。遊びの本質は「主体性」と「無意味性」だと。 窪田:たしかに、私も子ども時代には特に目的もなく友達と集まり、そこで自分たちが楽しいと思う遊びに夢中になっていました。ボールも遊具も、何もなくてもおもしろかった。
為末:そう考えると、スポーツのトレーニングは遊びではないんですよね。トレーニングは向上を目指していますから、目的がある。 窪田:おもしろい考えですね。 為末:「無意味性」でいうと、以前、「外遊びをすると有名幼稚園に入りやすいですか?」と聞かれたことがあるのですが、それは違うでしょうと。遊びは受験のためにするものではないですから。ただ、結果として役に立った、ということはあるんじゃないかなと思います。