世紀の一戦は本当に引き分けだった? 内側から見たアントニオ猪木vsモハメド・アリ戦の深層
アントニオ猪木vsモハメド・アリの『格闘技世界一決定戦』は、今もなお多くの謎に包まれている。1976年6月26日、日本武道館のリングで対峙した両雄は15ラウンドを戦い、結果は判定によりドロー。リアルタイムでは世間から痛烈な批判に晒されたが、現在では日本における「総合格闘技の原点」として高い評価を受けるようになった。大会当日、ジャッジペーパーの集計係を務めた当時の新日本プロレス営業部長・大塚直樹氏が独自の視点で「今世紀最大のスーパーファイト」を振り返る。 【写真】アントニオ猪木は北朝鮮で“国賓級”だった?現地で38万人を熱狂させた「平和の祭典」 ※本稿は、『Gスピリッツ選集 第一巻 昭和・新日本篇』(辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
モハメド・アリに支払った3億円の前金
今、考えるとアリのギャラが600万ドル、当時のレートで18億6000万円なんて途方もない数字でしたよね。でも、計算上は採算が取れていたんです。会場の日本武道館は満員になっても1万4000人程度ですから、どんなに高い入場料を設定しても収益はせいぜい数億円ですけど、全米生中継のクローズドサーキットをやれば20~30億円の上がりが出るから大丈夫だとアリサイドが言っていたんですよ。それだったら問題ないんじゃないかという話になって、僕たちは逆に儲かるぐらいの感覚でいたんです。 ただ、間際になってアリサイドが来日前に前金を振り込めという話をしてきて、その調達には四苦八苦しましたね。昔、豊登さんが猪木社長に紹介した不動産会社の社長さんが大阪にいまして、そこから3億円を借りたんです。それも裏金で。あれは現金をジュラルミンケースに入れて、飛行機で運んだんですよ。それで1回目の支払いが済んで、正式にアリが来日することになったんです。 猪木社長はアリが来日してからも余裕というか、自然体というか。緊張よりも、むしろアリとの戦いが実現するのを嬉しがっていたという感じでした。それに僕らもアントニオ猪木が一番強いと信じていましたしね。 だから、試合の3日前の公開調印式で、猪木社長が「勝った方が興行収益、ファイトマネーをすべて取るという勝負をしよう」とアリに迫ったのも作戦だったんですよ。挑発に乗ったアリが契約書にサインしたんですけど、あの勝者総取りの契約書はあらかじめ用意しておいたんです。すでに前金は払ってあるし、これ以上払わないで済む方法はないかと考えて。 もちろん、これは絶対に猪木社長が勝つという自信があったからこそですよ。つまり、あれは新日本サイドが公の場で仕掛けたわけです。もっともすぐに新間(寿)本部長がアリサイドに監禁されるような形で抗議を受けて、一晩で白紙撤回になりましたけどね。 この一件によって、アリサイドが態度を硬化させたんですよ。それによって、新たなルール変更を求めてくるという事態になってしまいましたね。当初はシンプルなルールだったはずが、試合前日になってスタンディングのキック、肘打ち、グラウンドの攻撃は5秒以内とか制限を求めてきたんです。アリサイドは「猪木は本気なんじゃないか」、「アリを守らなきゃいけない」という怖さを感じたと思うんですよ。新間本部長がよく言っている公表できなかった“裏ルール”ですね。 ここから先は聞いた話ですけど、「そういうことを猪木が守ってくれないのであれば、アクシデントでアリは帰国し、明日のリングには上がらない」と言われたと。それでOKした後に…これも聞いた話なんですけど、アリサイドにピストルを持っている人間が4人いたらしく、新間本部長がそれを見せられて、「もし猪木が約束を守らなかったら、その場で撃ち殺す」と言われたと。 アリサイドは当初、エキシビションマッチだと思っていたんでしょうね。アリが「道場に練習に行きたい」と言ったところ、そういうものはないと知らされて、「どういうことだ!?」となったらしいですから。ただ、それがどの時点なのかは僕もわかりません。 アリサイドがエキシビションだと信じ込んでいたのは、それまでの契約書は金銭面ばかりのことだけで、試合内容にまで及ぶものではなかったからだと思います。だから、戦いに関しての本当の契約書は新日本が公開調印式に用意してアリにサインさせた勝者総取りのアレだったと思いますよ。まあ、アリサイドにしてみたら、とんでもない話だったでしょうね(笑)。