現代人が失った「性欲」と「エロス」を取り戻す物語…50年ぶりの新生『エマニュエル』、映画の見どころとは?
官能に対し、もはや「不感症」になった現代人。
劇中のセクシュアルなシーンには、ある特徴がある。彼女の入浴を覗くホテルマン、娼婦の逢引きを窓から盗み見するエマニュエル、行きずりのカップルとの乱交、娼婦とのマスターベーションの見せ合いっこ、そして、スマホで自撮りしながらのセルフプレジャー。欲望の対象はジェンダーを問わず、レズビアン的な傾向もあるが、そこには絶えず「第三者の視線」が介在し、傍観者の立場は入れ替わって行く。 ある日、シノハラの誘いに乗り、ついにホテルの外へ飛び出した彼女は香港という街の匂いを初めて嗅ぎ、自らのエロスを解放し始める。これまではホテルというガラスの箱の中で息をしていたに過ぎず、この街を味わおうともしなかった彼女にとって、それは冒険だ。しかし、ここでも一緒に居るにも関わらずスマホのメッセージでエロティックなセルフィをシノハラに送りつけ、ついにオーガズムを得る時でさえも、シノハラには指一本触れない。明らかに彼にそそられているのに、直接的に誘惑することは最後までしないのである。前作『エマニエル夫人』でヒロインの性を調教した老紳士マリオが「抱くのが目的ではない。教えるのだ」と言っていたように、シノハラに与えられたのは、エマニュエルを肉体的に目覚めさせるため、彼女を導く役割でしかないからだ。 また、今作におけるシノハラの存在は、欲望とは他者の眼差しが存在するところに起こるものだというメタファーであり、また一方では、SNSで不特定多数の人々の目に晒され続けることで官能に対しもはや不感症になった私たち現代人への皮肉とのダブルミーニングを有している。自らの性的欲望を解き放ち、絶頂に達し初めて満ち足りた笑みを見せたエマニュエル。それは彼女が社会的な立場を手放し、完全なる精神の自由を手にしたから手に入れられたもの。ここに『エマニエル夫人』との類似点があるとすれば、両作とも、女性が欲望を解放させる物語だということだ。