民進・長島昭久衆院議員が離党の意向(全文1)真の保守をこの国に確立したい
真の保守とは何かについて考えた
私は2年前の夏、安保法制を採決する本会議場に1人、ぼうぜんと座っておりました。前日までの激しい党内論争に敗れ、失意のどん底で党議拘束に従い安保法制に反対票を投じました。実は当時、私は党内論議と並行してTwitterを使ってさまざまな方と議論を闘わせてまいりました。そのとき安保法制の賛否をめぐる左右の主張の対立の激しさ、醜さと言ってもいいかもしれません。これに衝撃を受けました。議論がかみ合うどころか、単なるののしり合い、傷つけ合いに陥ってました。これをネットの世界の出来事と片付けるのは簡単ですが、実は現実にも同じようなののしり合い、果ては議員同士の殴り合いが委員長席周辺で繰り広げられました。 このまま国家の基本に関わるような問題、特にこれから憲法改正という戦後政治の根幹に関わるような究極的なテーマが控えています。こういった国家の基本に関わるような問題で、左右の衝突が繰り返され、過激な極論や暴論のぶつかり合いが続くようでは、日本社会における保守とリベラルの分断、亀裂は抜き差しならないところまでいくのではないか。深刻な危機感を抱きました。その恐ろしさは、今日のアメリカの分断状況を見れば想像に難くないと思います。そのような国家を二分する争点において、対立する双方の意見を調整し、国会における熟議に反映させる責任を担うべきは、私たち国会議員であります。そして、そのような社会の分断、国家の亀裂を生じさせないようにするのが、この国の保守政治家の責務ではないか、考えるに至ったであります。 それ以来、私は党議拘束のしっこくに身もだえするような重圧を感じながら真の保守とは何かについて考えてまいりました。党内ガバナンスという魔法の言葉によって、一致結束して安倍政治を許さないと叫ぶことを求められ、過去に自分たちが推進したり容認してきた消費税も、TPPも、ACSAも、秘密保護法制も、安保法制も、憲法改正論議も、共謀罪も全て反対。徹底抗戦、廃案路線で突き進む。行き詰まると院外のデモ隊の中に飛び込んでアジる、あおる、叫ぶ。そこには熟議も建設的な提案もない。与野党の妥協も政策調整の余地もない。国民世論の統合を期待されている国会において、かえって国民の中にある分断の萌芽をさらに拡大しているようにしか私には見えませんでした。もちろんこれは野党だけの責任ではありません。政権の側にしばしば見られる独善こそ、厳に慎むべきものだというふうに申し上げておきたいと思います。そこで真の保守とは何か。それはわが国の歴史と伝統を貫く寛容の精神だというふうに思います。ですから真の保守は、多様な意見を包摂することができるのだというふうに私は信じています。 実は、この間、気付いたんですけれどもリベラルといわれている皆さんのほうが、実は結構、過激でありまして、権力に対するルサンチマンのようなものがあって、寛容さに欠ける言動がしばしば見られます。政府や保守的な主張に対する攻撃は、時に激烈であります。市民連合なる組織を率いるある政治学者が一国の総理に向かって、おまえは人間じゃない、たたき切ってやる、などと叫んだりしております。一方、保守の側も昨今、劣化が激しく、籠池さんのように教育勅語を信奉していれば保守だと言わんばかりの粗雑なキャラクターが際立っています。私は、真の保守とは国際社会でも通用するような歴史観と人権感覚を持ち得なければならないと考えています。不寛容なリベラルも粗雑な保守も、一度立ち止まって国内外の現実を直視し、それぞれの議論を整理し直すべきではないかというふうに考えております。 真の保守は左右の主張を包摂しつつ、対立点について粘り強く説得に努め、この国に秩序ある進歩、この秩序ある進歩というのは私が尊敬する小泉信三先生の言葉でありますけれども、この国に秩序ある進歩をもたらすことに力を注ぐべきではないか、このように考えます。それはまた中庸という思想に通じるものがあると思います。中庸は、過剰に対する自制とそして不正に対する毅然とした姿勢によって、一方に偏ることなく常に調和を重んずる思想だと私は理解しております。足して2で割るといったような単純な話ではありません。中庸を保つためには、強い意思と高い理想がなければなりません。 私はここに、特定の党派から独立した1人の保守政治家として、わが国を取り巻く内外の諸課題と真摯に向き合い、あるべき政治の形をつくりあげるために、私の問題意識を共有してくださる同士の皆さんと共に、中庸を旨とした真の保守政治の独立という大義の実現を目指して、行動を起こすものであります、以上です。ご清聴ありがとうございました。