元自衛官の異色漫画家、長く過酷な下積み生活 3度も連載直前で白紙に…38歳でつかんだヒット作
崖っぷちで東京中の出版社に持ち込み「これで無理だったら漫画家を辞めよう」
紆余曲折を経ながらも、漫画家としての活動を始めた藤原先生だったが、上京直後には、印象的な出会いが待っていた。 「上京して仕事も無いだろうからと紹介してもらったのが山本英夫先生のアシスタントでした。そこで働くまで1か月ぐらい時間があったので、その間はヘルプでいろんな先生のところに行っていました。そんな時に僕が自衛官だったと聞いて、他雑誌でしたが、板垣(恵介)先生から『来てほしい』と声を掛けられたんです。小学館の担当の方も驚いてましたね。『板垣先生は断れない』って(笑)。 板垣先生のところは、朝4時集合で、原稿が上がるまで先生がやり続けるんです。『漫画家の世界ってこうなんだ』と実感しましたね。でも、板垣先生が特別だっただけでしたね(笑)。自衛隊っぽい雰囲気も少しあって、僕にとっては居心地が良かったですね。板垣先生は元自衛官で空挺出身。それで漫画家として成功されていたので、『元自衛官でもやれるんだ』と勇気をもらいました。 最後は給料を手渡ししてくれました。その時に『ところでお前いつからウチに来れるの?』って誘ってもらえて。ありがたいお話でしたが、山本先生のもとで働くことが決まっていたので、不義理できないと思って、板垣先生には後日電話でお断りさせてもらいました」 その後、山本先生のもとで修行を積んだ藤原先生。約9年間、同先生のもとでアシスタントとして働き続けた。 「僕はいつまでも絵がうまくならなかったですね。同年代の花沢健吾くんがアシスタントで入ってきて、いきなり僕より大きなコマを任されていました。悔しかったですね。でも、本当に彼は絵がうまいんですよ。すでにデビューも決まっていたので、『そりゃ漫画家になるよな』と納得でした。その頃の僕は全然ダメでしたね。持ち込みもしていたので、3回ほど連載の話をもらったりもしたんですよ。3年に1回のペースでしたね。でも、連載を打診してくれた編集さんが急に飛んでしまったり、担当さんの熱量が急変したり……。ことごとく全部白紙になって、『連載はもう無理なんだろうな』と心が折れかけてましたね。 山本先生のところを辞めた頃、先生から『実録系の漫画の描き手探してるよ』と紹介してもらってそういった仕事を受けていました。原稿料をもらえてどうにか生活はできるという期間を2年ぐらい続けていました。でも、描く内容が凄惨(せいさん)な話ばかりで、心は病むし、単行本になるわけでもないので、生産性がないんですよ。自分が描きたい作品でもなく、ただ生活のために描いているだけ。結婚して子どもがいたので、『バブバブ』言っている顔を見ながら『我慢しなきゃ』と思って描いていました。本当につらい日々でしたね。漫画を描けることは幸せだけど、自分の望んだ形ではなかったです」 その後、このままではダメだと感じ、「これで無理だったら漫画家を辞めよう」と覚悟を決めた。 「自分の漫画を描くために、背水の陣で一度だけ仕事を断ったんです。そしたら、それ以降まったく仕事がこなくなっちゃいましたね(笑)。自分の漫画を描いて、掲載することもできたのですが、読み切りだったので、その後数か月は無職みたいな生活で貯金を切り崩しながらやっていました。 最後の最後でどうせ辞めるんだったらと、東京中の出版社を全部回りました。その時、少年画報社に実録系の不良漫画を、原作者の方と一緒に持ち込みに行ったんです。そしたら『今後は藤原さんが単独で持ってきてください』と言ってもらえたんです。 ちょうどその頃に、新潮社の『コミックパンチ』で『泣く男』が前後編で掲載されました。これも担当さんが飛んで、掲載されたのは当初の予定から1年遅れだったんです(笑)。それを見てくださった画報の編集長から『連載で続編を描きませんか?』と声を掛けてもらえたんです。 『ハイエナ』が連載されて、ようやく初めて漫画家と言えるようになりましたね。でも、隔月雑誌だったこともあって、それで飯を食えるほどではなく、いよいよ『後10回で連載終了』と宣告されてしまいました」