いよいよ最終回! 藤原道長の最期と紫式部のその後を時代考証が解説
2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。
「刀伊の入寇」に公家社会はいかに対応したか
大河ドラマ「光る君へ」47話では、「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」に対する京都の公卿連中の対応が描かれた。彼らがこの第一報に接したのは、四月十七日のことであった。『小右記』を読み解いて、時間順におおよそを述べておこう(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。 ・四月十七日 大宰府(だざいふ)からの飛駅使(ひえきし)が到来した。藤原実資(さねすけ)の許にも、藤原隆家(たかいえ)からの書状が届いた。内容は、先に見たとおり。 ・四月十八日 召しを承けた実資は藤原道長と意見を調整した後、参内して陣定(じんのさだめ)に臨もうとしたが、もう議定は終わっていた。陣定の上卿(しょうけい)であった藤原公季(きんすえ)が実資に解文(げぶみ)を見せ、意見を聞いた。陣定では、要害の警固(けいご)、賊徒の追討、有功者の行賞(こうしょう)、種々の内外の祈禱、山陰・山陽・南海道の警固を行なうことが決まっていたが、実資の意見によって北陸道が加えられた。また、飛駅に「奏(そう)」(天皇への言上)の字がなかったことを指摘することとなった。 ・四月二十日 人々は大宰府から追っての飛駅が来ないことを怪しみ憤っていた。 ・四月二十一日 「異国凶賊(いこくきょうぞく)が鎮西(ちんぜい)に来着(ちゃく)した事」によって、諸社に奉幣使(ほうべいし)を出立させた。摂政(せっしょう)藤原頼通(よりみち)の賀茂詣(かももうで)も延期された。なお、刀伊の来寇によって、都の行事に変更があったのは、このことだけである。賀茂祭も翌二十二日に予定どおり行なわれた。 ・四月二十五日 十六日付の大宰府解が早船に乗って京上されてきた。これで危機が去ったことを都の公卿が知ったことになる。 ・四月二十六日 大宰府解を天皇に奏上(そうじょう)しようとしたが、頼通をはじめ病悩や物忌(ものいみ)の者が多かったため、翌日に延期された。 ・四月二十七日 大宰府解の内容を議定する陣定が開かれたが、参加した公卿の数が少ないというので、大納言を召し遣わした後に定め申した。その結果、捕虜三人の国籍が刀伊なのか高麗(こうらい)なのかが不明なので、決定して大宰府に言上すべきこと、捕獲した兵器や捕虜は京に進上する必要がないこと、筑前四王寺(しおうじ)で御修法(みしほ)を修すべきこと、対馬島司(つしまとうじ、大春日〈おおかすが〉)遠晴(とおはる)を早く本島に遣わすべきこと、壱岐守(いきのかみ)藤原理忠(まさただ)が殺害されたことが解に記されていないことを指摘すること、防人(さきもり)と兵糧(ひょうろう)の糒(ほしいい)を準備すべきことが決定された。 ・五月三日 大宰府への報符(ほうふ)に、寛平(かんぴょう)五年(八九三)に新羅(しんら)海賊を追討した際の例にならって、「農業を懈怠(けたい)しないように」との文言を加えた。 ・五月四日 同じく報符の文言のうち、「姧猾襲来(かんかつしゅうらい)」を「姧猾来侵(らいしん)」に改め、内印(ないいん、天皇御璽〈ぎょじ〉)を捺(お)して大宰府に下された。 ・五月二十四日 十日付の隆家の書状が実資に届いた。「刀伊賊を追討した兵船(へいせん)が未だ帰来していません。壱岐から対馬に向かったらしいのですが、その後は連絡がありません。皆、大宰府の立派な武者たち(「府の止〈や〉むこと無き武者等」)です。はなはだ嘆くところです。但し兵船・兵器を造らせ、要害警固に勤めさせます」というものであった。