いよいよ最終回! 藤原道長の最期と紫式部のその後を時代考証が解説
公任や行成は、なぜ行賞に反対したのか
・六月二十九日 大宰府が注進(ちゅうしん)した勲功者(くんこうしゃ)の処遇を議す陣定が開かれた。大宰府からは十一人の勲功者(大宰府に直結する前府官系武者+「住人」とされた在地武者)が上申されたが、問題となったのは、彼らにどのような行賞を行なうかではなく、そもそも彼らに行賞を行なう必要があるのかどうかであった。 どういうことかと言うと、勲功が有る者に賞を進めるということを四月十八日付で勅符(ちょくふ)に載せたとはいっても、戦闘はすでに四月十三日に終わっており、勅符が未だ到らない前に勲功を立ててしまったからであるという理由によるものであった。 藤原公任(きんとう)と藤原行成(ゆきなり)という、当時を代表する有能な公卿は、行賞を行なうべきではないという意見を述べた。しかし実資が、「勅符が到ったかどうかを論じてはならない。たとえ行賞を募っていなくとも、勲功が有れば賞を賜うことに何事が有ろうか。寛平六年に『新羅の凶賊』が対馬島に到り、島司文室善友(ふんやのよしとも)が撃退した時にも賞を給わった。まして今回は、刀伊人が人民千余人を拉致(らち)し、数百の人や牛馬を殺害し、また壱岐守理忠を殺した大事件である。それを追い返し、刀伊人を射殺したのであるから、やはり賞が有るべきである。もし賞を与えなければ、今後は奮戦する者がいなくなるであろう」と意見を述べると、藤原斉信(ただのぶ)がそれに同調した。その後、公任と行成はじめ次席の者も同じ意見となった。 その他、捕虜に拷訊(ごうじん)を加え、結果を言上すべきこと、漂着した高麗人も重ねて尋問すべきこと、祈禱を行なうことが決定された。 ・七月十三日 除目(じもく)が行なわれ、前大宰少監(さきのだざいのしょうげん)大蔵種材(おおくらのたねき)が理忠の後任の壱岐守に任じられた。この種材は、刀伊人が退却した際に、兵船を造るのを待って追撃しようという大宰少弐(だざいのしょうに)の意見に対し、「自分は功臣(こうしん、藤原純友〈すみとも〉の乱の際に追捕南海西海凶賊使〈ついぶなんかいさいかいきょうぞくし〉)として博多で奮戦し、その功で対馬守(つしまのかみ)に任じられた大蔵春実(はるざね)の孫で齢は七十歳を過ぎているので、命を棄てて身を忘れ、一人で先ず進発する」と言って追撃した人物である。また、高田牧司(たかだのまきし)で大宰大監(だざいのだいげん)であった藤原蔵規(くらのり、菊池〈きくち〉氏の祖)が「刀伊の賊の賞」によって対馬守に任じられた(『除目大成抄〈じもくたいせいしょう〉』〈『大間成文抄(おおまなりぶみしょう)』〉)。 しかし、今回の事件で行賞を得たのは、史料に残る限りではこの種材と蔵規だけであった。この二人にしても、刀伊に殺された壱岐守や敵前逃亡した対馬守の後任という辺要(へんよう)国の島司というのでは、他の勇者の行賞も大したことはなかったはずである。 なお、もともと、大宰府から上申された十一人の勲功者には隆家の名はなかったが、それは大宰権帥として当然の職務を遂行しただけであると考えたのか、行賞を配下の武者たちに譲ろうとしたものか、はたまた何も言わなくても自分には行賞があると信じていたからなのであろうか。しかし、当然のように隆家には何の行賞もなかった。 なお、行賞は必要ないと言った公任や行成の意見に違和感を覚えた方も多いであろうが、朝廷の判断としては、公任や行成が正しいのである。地方で朝廷の許可なく勝手に戦闘を始めて、勝利した方に褒賞を与えることを認めてしまえば、秩序が乱れて各地で戦闘が頻発するようになる。後の後三年の役のように、朝廷が戦闘を許可せず停戦を命じたのに戦闘を進めた源義家(よしいえ)には行賞どころか処罰が下されている。朝廷の命令(宣旨(せんじ))もなく勝手に戦闘行為を行なってはならないのであった。後に源頼朝(よりとも)が朝廷の命を無視して平泉(ひらいずみ)を攻め、日本は武士の世となることになる。