いよいよ最終回! 藤原道長の最期と紫式部のその後を時代考証が解説
警戒心と猜疑心に満ちた対応
九月四日に高麗国の虜人送使(りょじんそうし)鄭子良(ていしりょう)が、拉致者二百七十人余りを連れて対馬に到着したことが大宰府に知らされた。 その処置に関する陣定は、九月二十二日に開かれた。高麗使を大宰府に召問(しょうもん)して事情を聞き、それまでは疑いを持つべきこと、大宰府解には「刀伊国」とあったのに高麗国牒(ちょう)には「女真(じょしん)国」とあることの事情を大宰府に聞くこと、この度は飛駅言上すべきなのに通常の使者が言上したために日数がかかったことを大宰府に詰問(きつもん)することが決められた。 大宰府は高麗使召問の日記を進上し、それは大晦日の十二月三十日に朝廷に届いた。対馬からわざわざ大宰府に向かった高麗使の船のうち、三十人を載せた船が沈んで二艘がわずかに到着したとのことであった。高麗は日本に友好的に対応しているにもかかわらず、日本側が警戒心と猜疑心(さいぎしん)に満ちた対応を行なった結果が、これであった。 そもそも実資が、「新羅は元敵国である。国号の改変が有ったとはいっても、なお野心が残っていることを嫌う」と記している心情こそ、王朝貴族の対朝鮮観なのであった。
大臣欠員騒動
いよいよ最終回の「光る君へ」48話では、藤原道綱(みちつな)が道長に大臣就任を頼みこむシーンが描かれる。実はこのシーンの元になった史実が存在する。実資や道綱・藤原教通(のりみち)・斉信、そして道長を巻き込んだ大臣欠員(けついん)騒動なのであった(倉本一宏『摂関政治と王朝貴族』)。 六月九日、左大臣藤原顕光(あきみつ)が辞任するという噂が宮廷社会を駆けめぐった。大臣の席が一つ空くということで、道綱・実資といった大納言、藤原斉信・源俊賢・公任といった権大納言たちは色めき立った。 見通しを楽観視していた実資であったが、十四日に無能な道綱が藤原道長に大臣の座を貸してほしいと嘆願しているという情報がもたらされ、実資は驚いている。政務に関与しないことを条件にしているとのことで、実資はますます怒った。 十九日、道長から有利な言質を得られないと見るや、何と道綱は道長室の源倫子(りんし)に取り入った。しかも、斉信まで大臣を望んでいるとのこと。実資に不利な情報が続いた。 しかしよく考えれば、それまで不確定な風説を頼りに、希望的観測を重ねてきただけのことだったのである。現代でもよくある話なのであろうが。 結局、顕光は辞任することなく、十二月の除目で教通が権大納言に任じられただけであった。実資が(教通とともに)大臣に任じられるのは、顕光が死去した二年後のことである。