いよいよ最終回! 藤原道長の最期と紫式部のその後を時代考証が解説
長岑諸近が拉致者から聞いた悲報
その同じ七月十三日、隆家は実資に宛てた書状に添えて、大宰府解および多治比阿古見(たじひのあこみ)・内蔵石女(くらのいわめ)の申文(もうしぶみ)を進上した。解の内容は、対馬で刀伊に略取(りゃくしゅ)されながらも六月十五日に独り脱走し、国禁を犯して海外密航を行なって高麗に向かった対馬判官代(つしまのはんがんだい)の長岑諸近(ながみねのもろちか)がもたらした情報と、その申請であった(『小右記』)。 諸近は拉致された母や妻子の消息を知りたくて高麗に向かったのだったが、高麗に救助された日本人拉致者から聞いたのは、伯母をのぞく全員が海に投げ込まれて殺されていたという悲報であった。刀伊は屈強な高麗人を拉致すると、船中の病者や弱者を海に投げ捨てたのである。諸近の嘆きは想像に難くないが、つぎの問題はどうやって日本に帰るかであった。 朝廷はまだ、高麗の関与を疑っている。厳制(げんせい)を犯したうえにその高麗から帰ってきたというのでは、スパイを疑われても仕方がない。そこで諸近は高麗にいた元拉致者の女性十人を連れて、七月七日に対馬に戻ってきたのであった。 対馬島司は一行を大宰府に送り、大宰府は渡海の禁を維持するために諸近を禁固に処したうえで、七月十三日付の解を作成し、高麗使の到着を待たずに朝廷に言上したのであった。この解の到来によって、朝廷はようやく高麗の来寇ではなかったことを知ったのである。
退却後の刀伊
多治比阿古見・内蔵石女の申文の方には、退却後の刀伊の動静が語られている。高麗沿岸につくと、刀伊は毎日、未明に上陸して掠奪をはたらき、昼間は島影に隠れ、強壮な者を選んで老衰(ろうすい)の者を打ち殺し、病者や弱者を海に投げ入れ、夜になると漕ぎ去ったというのである。 五月中旬に高麗の巨大な兵船数百艘が朝鮮半島北部の元山(げんさん、現北朝鮮江原道永興湾)沖に襲来し、刀伊の船を破壊したので、刀伊は船中の捕虜を殺害したり海に投げ入れたりした。阿古見と石女も海に投げ込まれたが、高麗の船に助けられて蘇生(そせい)した。 そして高麗で厚遇を受け、十五日かかって金海府(きんかいふ、現韓国慶尚南道金海市)に到着して帰国の時を待っていたというのである。金海府には三百人の日本人拉致者が集められているが、これは高麗が送還してくれるとのことである。 なお、その後の諸近の処分は不明である。「府の止むこと無き武者等」の消息も、史料には残されていない。