愛知と三重の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?
国民の理解得られず、計画頓挫
しかし、こうした期待と熱意も、結果として実を結ぶことはなかった。 1998年に「伊勢湾口道路建設促進東海四県議会議員協議会」が結成され、一時は実現に向けた機運が高まったかに見えた。だが、この協議会も2005(平成17)年には活動を停止。2010年に再び活動再開を試みたものの、長くは続かなかった。 「21世紀の国土のグランドデザイン」で国家的プロジェクトとして言及されながら、実際に行われたのは ・地元での協議会設立 ・祭りでの実現を願う飾り付け ・催し物の開催 といった、大規模インフラ計画でよく見られる表面的な盛り上がりだけであった。結局のところ、この壮大な構想は、多くの未完の地域開発計画と同じ道を辿ることとなったのである。 伊勢湾口道路が実現しなかった表面的な理由としては、1990年代以降の日本経済の長期低迷や、三重県・紀伊半島地域への架橋がもたらす具体的な経済効果が見えにくかったことなどが挙げられる。しかし、最大の理由は、この計画の基盤となった「国土軸」という概念自体が、 「国民の理解や共感を得られなかった」 ことにある。1990年代、日本の国土開発は大きな転換点を迎えていた。それまでの東京~名古屋~大阪を結ぶ太平洋ベルト地帯への一極集中が、地域間格差を生み出してきたという反省があったのである。この反省から生まれたのが「国土軸」という考え方だ。 これは、気候や文化が似通った地域同士を交通網で結び、新たな発展の可能性を作り出そうというものだった。具体的には、 ・西日本国土軸(関西から九州) ・北東国土軸(東北から北海道) ・日本海国土軸(新潟から九州) ・太平洋新国土軸(伊勢湾口道路を含む) という4つの発展軸を作り、日本全体を均衡ある発展に導こうとした。しかし、この構想は国民の理解を得られなかった。なぜなら、「軸を作れば地域が発展する」という考え方があまりに漠然としており、人々は自分たちの暮らしがどうよくなるのか、具体的にイメージできなかったからである。 さらに皮肉なことに、この時期、グローバル化の進展により企業の本社機能や情報産業が東京に集中。国土軸で地方分散を図ろうとした理想とは逆に、東京一極集中はますます強まっていったのである。