愛知と三重の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?
新たな転機と多軸型国土構造
伊勢湾口道路がようやく日の目をみたのは、それから約10年後のことである。 1998(平成10)年に策定された「21世紀の国土のグランドデザイン」では「多軸型国土構造」を目指すという方針が示されている。なお、開発中心の国土計画からの変化を示すために、五全総という呼称はあまり用いられなかった。 新たな構想では、日本が太平洋ベルトという一極一軸に集中した結果、そこから外れている地域では地域固有の文化や交流の歴史、豊かな自然が生かされていないこと。一方でベルト内部では居住環境の悪化や交通渋滞の問題などが絶えないこと指摘し、こう記している。 「国民意識及び時代の潮流の大きな転換を踏まえ、21世紀の文明にふさわしい国土づくりを進めていくためには、国土構造形成の流れを太平洋ベルト地帯への一軸集中から東京一極集中へとつながってきたこれまでの方向から明確に転換する必要がある」 「21世紀の国土のグランドデザイン」では、伊勢湾口道路について、より具体的な検討の方向性を示している。 「伊勢湾口道路の構想については、長大橋等に係る技術開発、地域の交流、連携に向けた取組等を踏まえ調査を進めることとし、その進展に応じ、周辺環境への影響、費用対効果、費用負担のあり方等を検討することにより、構想を進める」 これを契機として、伊勢湾口道路は、紀淡海峡・豊予海峡と並ぶ海峡横断プロジェクトとして浮上することになる。新たな構想では、 「三遠伊勢連絡道路」 として、静岡県西遠地域から愛知県渥美半島・伊勢湾口部を経て、三重県志摩半島まで約90kmを結ぶことが検討された。
分散型開発へ、伊勢湾口道路の役割
この新しい「三遠伊勢連絡道路」構想は、従来の計画とは本質的に異なる意義を持つものとなった。 かつての計画は名古屋市を中心とした求心的な発展を目指すものだった。しかし新構想は、静岡・愛知・三重という各地域が持つ固有の文化や自然を活かしながら、それぞれが独自の発展を遂げることを目指している。つまり、名古屋という大都市への一極集中から、 「地域の多様性を活かした分散型の発展」 へと、その理念は大きく転換したのである。この地域を重視した構想への転換により、架橋実現への期待は高まった。「21世紀の国土のグランドデザイン」の決定を前に建設省による調査が予定されていた1995(平成7)年の『中日新聞』では 「伊勢神宮の次の式年遷宮(2013年=平成25年)までの開通が目標という「夢の架け橋」は、実現に向けてゆっくりと動き出す」 とまで記しており、実現に向けた期待値が極めて高かったことを示している。また、この記事では、こんな記述もある。 「伊勢湾口道路は、愛知県が表に出がちな中部地方の大規模プロジェクトの中では珍しく、三重県主導と言っていい。三重県は、故田川亮三前知事が今春の引退前に行った機構改革で、スタッフ五人の「伊勢湾口道路建設推進室」を発足させた。専門の部署設置は、もちろん同県がトップを切ってのこと」 ここには、単なる道路建設という以上の、三重県の地域としての切実な思いが込められていた。それまで三重県は、愛知県、とりわけ名古屋市という圧倒的な中心の影に埋もれ、中部圏の周縁的な立場を余儀なくされてきた。しかし、この伊勢湾口道路は、三重県が 「紀伊半島の玄関口」 として独自の発展を遂げるための起爆剤となる可能性を秘めていた。つまりこの計画は、インフラ整備という枠を超えて、三重県が名古屋圏の「周辺部」という立場から脱却し、独自の 「地域アイデンティティ」 を確立するための象徴的なプロジェクトとしての意味を持っていたのである。 この新しい構想は、ちょうど中部圏全体が大きな発展の機運に包まれていた時期と重なっていた。中部国際空港の建設や2005年の愛知万博を控え、東海三県が経済的な好調さを見せるなか、伊勢湾口への架橋の夢も、より現実味を帯びて広がっていったのである。