愛知と三重の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?
国土軸の光と影、地域分断の深化
さらに、1998年の「21世紀の国土のグランドデザイン」は、華々しいスローガンを掲げながらも、具体的な実施戦略を示すことができなかった。予算の裏付けもなく、実現に向けたロードマップも描けないまま、単なる行政的な構想に終わってしまったのである。 実際、この構想の空虚さは、その検討段階から既に表れていた。1991(平成3)年1月17日付朝刊の『朝日新聞』は、「第2国土軸」の位置づけを巡る東西の対立を報じている。西日本と東日本の自治体が、それぞれ自分たちの地域こそが「第2国土軸」にふさわしいと主張し、予算獲得を目指して争っていたのである。 特に興味深いのは、東北地方の事例だ。 「北海道・東北地方知事会議でも、「第2国土軸を東北に」という総論ではまとまったものの、各論になると各県知事の意見には食い違いがみられた。「なんとしても新幹線を函館まで通す」(北村正哉・青森県知事)。「北関東との一体的な開発整備を目指す」(佐藤栄佐久・福島県知事)。「遠野-釜石間への宇宙産業基地誘致にも力を入れたい」(中村直・岩手県知事)。「東北が3つ、4つに分かれてはいけない」(佐々木喜久治・秋田県知事)。宮城県以外は「仙台だけが結局はいい目をみるのでは」という思いもあって何を目指すのか焦点を絞りきれないでいる」 このように、国土軸構想は皮肉な結果を生んだ。本来は地域を結びつけるはずのこの構想が、かえって 「地域間の分断」 を鮮明にしたのである。東北の事例が示すように、表向きは連携を掲げながら、実際には各県が自らの利害を優先し、対立を深める結果となった。 結局のところ、国土軸は国家レベルの抽象的な構想に留まり、具体的な地域振興の青写真を描くことができなかった。それは各地域にとって、予算獲得のための方便でしかなかったのである。伊勢湾口道路の構想は、一時的にこのあいまいな国土軸という言葉とともに、踊ったに過ぎなかったのである。