襲いかかる八甲田の白魔…兵士199人死す 「雪中行軍」の悲劇から120年、今に残された教訓とは
八甲田山雪中行軍遭難資料館(青森市)に展示されている当時の将兵の装備。手袋やわら靴などを身に着けていたが、防寒面で脆弱さは否めない
ちょうど120年前、厳寒の八甲田(青森県)で200人近い兵士が散った。世界の山岳遭難史に残る大惨事から、学び取ることができるものは何か。関係者への取材などから探る。 「白雪(しらゆき)深くふりつもる/八甲田山のふもとはら/吹くやラッパの声までも/凍るばかりの朝風を/ものともせずにおおしくも/進み出でたる一大隊」 堂々たるメロディーが耳に残る「陸奥の吹雪」(作詞・落合直文、作曲・好楽居士)。明治期からあるというこの歌は、この一節から分かるように、「八甲田山雪中行軍遭難事件」が題材となっている。第2次世界大戦終結まで、軍歌として歌われてきた。冬の八甲田で起きた遭難事件を今に伝えるものは、当時陸軍がまとめたいくつかの資料や生存者の証言などに限られ、決して多いとは言えない。その一方、歌や芝居、小説、映画といったその時代に合った形で語り継がれてきた。人々の尽きぬ興味に応えるように。1902(明治35)年1月23日早朝。青森県東津軽郡筒井村に構えていた陸軍第8師団青森歩兵第5連隊第5中隊隊舎前に210人の将兵が集まった。当時の観測によると、この日の最低気温は氷点下8.7度。雪は舞っていたが、天候はまずまず。一行は整然と南へ歩を進めていった。5里強(約22キロ)を歩き、八甲田の東側にある田代新湯に1泊する行程の雪中耐寒訓練。ただ八甲田に足を踏み入れると状況は一変する。そりが雪に阻まれ、行軍の速度が大きく落ちた。そして視野を完全に奪う吹雪。隊舎に戻ろうとしたが、100~200年に一度と言われる大寒波が重なり、一行は荒れ狂う白魔の中を散り散りになって…
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