大和政権から江戸幕府まで。「地方の声」「民衆の声」は「中央」にどう届いたか。
全国の「民衆」の代表である議員が集まり「地方の声」を届ける場でもある国会議事堂。我が国の歴史において、「地方の声」はどのように“中央”、“国政”に反映されてきたのだろうか
▽シリーズ「東京の中の“地方”」その11(青森県立保健大学社会福祉学科特任教授・小山内豊彦) 今回は、少々視点を変えて、我が国の歴史において、「地方の声」がどのように“中央”、“国政”に反映されてきたか、という観点から論を進めていきたい。最終的には、現代の「議会制民主主義」におけるその実態について考察したいと思うが、その前段階として、日本の政治制度と一般の民衆との関係の歴史について振り返ってみることとしたい。まずは、古代律令制における実態であるが、701年の「大宝律令」の完成をもって日本に「中央国家」(のようなもの)が誕生し、「中央官制」と「地方官制」が整った。その姿は、「首都」に相当する「都」が平城京(奈良)に置かれ、都を取り巻く「大和(奈良県)」「摂津(大阪府)」など5つの国が「畿内」と呼ばれ、いわば「首都圏」≒「中央」と位置付けられた一方、畿内以外の、現在で言うと、おおむね南は鹿児島県から北は青森県に置かれた、今の「県」に相当する63の国々が、いわば「地方」とされたのである…
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