安倍元総理銃撃に思う日本文化の深淵 テロリズムと大和魂
西欧近代文明に対するテロリズム
テロリズムは一見突発的な事件と見えても、実はその社会の文化構造に深く根ざしているものだ。 アメリカでは、奴隷解放をとなえたリンカーン元大統領、公民権運動のケネディ元大統領、キング牧師など、人種問題が絡むことが多い。ヨーロッパでは、キリスト教とイスラム教、ローマンカトリックと東方正教会(西欧とロシアを含む東欧との思想闘争の淵源)、カトリックとプロテスタント(たとえば北アイルランド紛争)など、歴史的宗教対立が絡むことが多い。 日本ではどうだろう。テロリズムがつづいた江戸末期も昭和初期も、世界の帝国主義的状況に対峙するものとしての「大和魂」が絡んでいるように思われる。 幕末には、黒船の恐怖と大和魂が現状打破のテロリズムに結びついた。昭和初期には、日本の大陸進出に対する欧米の包囲網に対して、政府は「満蒙は日本の生命線」ととなえ、テロリストたちは「君側の奸を斬る」ととなえた。いずれも西欧近代文明の外力に対する大和魂という文化的応力として理解できるように思う。より普遍的な言葉で表現すれば「文明の必然に対する文化的ルサンチマン」であろう。 安倍元総理は国家主義あるいは国粋主義的な精神すなわち「大和魂」への志向が強い。海外の首脳に理解されたのも、そのハッキリした方向性によるのかもしれない。そしてその分、皇国思想、神国思想、忠君愛国的モラルを掲げる団体に親和性が強い。安倍元総理は、郷里の英雄である吉田松陰と、祖父の岸信介を尊敬していたが、前者は、国のために命を捧げることを奨励した苛烈な思想家であり、後者は東大在学中から皇国思想のホープとされ、反共産主義という面で、国際勝共連合と統一教会の創始者とつうじるところがあった。
現代日本社会における大和魂の「ネジレ」
こう考えてきたとき、安倍元総理と、大和魂と、日本テロリズムとを結ぶ線が見えてくる。しかしそれが今回の犯行に直接結びつくわけではない。宗教団体に対する恨みと安倍元総理の銃撃とには大きな乖離があり、暗殺が許されざる犯行であることに異論の余地はない。むしろそこに、ある種文化的な「ネジレ」現象を感じる。 今の日本には、近代西欧文明の価値観が支配的となり否応なくグローバリズムが進む中でもたらされる大きな精神の歪みがある。逆にその外力に対峙するかたちの「大和魂」も強くなる。安倍元総理はその「大和魂」を精神的な味方にしているが、同時に近代西欧文明とグローバリズムを推進する「西側」の一員であることを強調してもいる。そこにある種の「ネジレ」が伏線として存在する。そしてその日本人の精神的歪みにつけ込み金銭によって魂の救済を標榜する宗教団体が介在することによって、その被害者(=山上容疑者)の恨み(魂を利用することに対抗する魂)が、その宗教団体に近い(少なくとも容疑者がそう思った)権力者に向かうという、もうひとつの「ネジレ」が挟まれている。 そういった文化構造の「ネジレ」を挿入することによって、一見、個人的怨恨と見える犯行にも、その深淵の力学が見えてくるような気がするのだ。 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」と吉田松陰は詠んだ。松陰が留めおいた大和魂はまだこの国土に息づいているように感じる。 「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」と本居宣長は詠んだ。 日本文化を考えていると「大和魂」あるいは「大和心」という概念にぶつからざるをえない。しかし「軍備が足りないのを大和魂でおぎなえ」といった不合理な戦争は二度とあってはならないものだ。元総理の御霊を弔うためにも、源氏物語が初出とされる「大和心」すなわち日本の風土に育った、外来思想におかされない素直な心を、貴重なものとしたい。