古民家を支えてきた「古木」に再び命を ソフトバンク営業マンから転進、「1+1=2」ではない木造建築の世界へ
◆「お前には向いていない」と断られるも、「三顧の礼」で
――スムーズに家業に進むことができましたか? 最初、2代目社長である父からは「お前には向いていない」と断られました。 建築、特に解体や不動産は、感情が動く世界で、単純に1+1=2にならないことがある。 私はIT業界でスマートにやっていたから、打たれ弱いと思われていました。 だから、三顧の礼のように3回アタックしました。 その際、学生時代に一緒に飲みに行っていた父の仕事仲間に相談すると、「事業を継承するべきだ」とアドバイスを受けました。 事業を継承すべきだという人もいれば、そうでない人もいました。 取引先の方々と学生時代から話ができていたのがとても貴重でした。 「ゼロから始める人と、君とはスタート地点が違う」「ソフトバンクでの経験があるから、違った発想ができるだろう」と。 ソフトバンクの営業で結果を出したということも認められ、結局、父も納得し、2004年に山翠舎に入社しました。 ――山翠舎の入社後、どのような仕事をしましたか? 最初は現場監督を任されました。 理不尽な叱責を受けることも多く、なかなか辛かったです。 しばらく後、出張で東京を訪れた際、親友から経営者を紹介され、店舗の設計デザインの機会をいただき、施工の会社から設計施工の会社になるきっかけを得ることになりました。 従来の山翠舎は下請けの施工会社でしたが、初めて元請けとして設計・施工の機会を得ました。 1つは、コンペの中ですぐ受注につながりました。 もう1つは半年後くらいに受注になりました。 ご縁とはおもしろいものだと思います。 もちろん、人脈に頼る営業には限界があります。 切れ目なく受注を受けるため内装会社のマッチングサービスサイトに登録しました。 2009年には、18社のコンペに勝って初めての受注を獲得。 東京にオフィスを借り、ショールーム的な要素のある打ち合わせスペース事務所を作り、必死の思いで一件一件の受注をこなしました。 長野は、東京と比べるとマーケットが格段に小さい。 東京は、店舗設計の仕事のチャンスが多くあるので、東京にシフトするようになりました。 当初は住宅設計をすこし請け負っていたくらいで、設計だけはやっていませんでしたが、東京では今まで人脈で受注はしていたものの、何もない中で設計から受注するのは至難の業です。 絞らないといけないと考え、飲食店の設計・施工に絞りました。