性虐待の家を逃れたものの、孤独は私を蝕んだ。恩人に去られた寂しさは恨みに変わり、恨みは私を鬼に変えた
通常の家庭では、親が子どもに道徳観念や“人として“大切なことを教える。だが、中には歪んだ感情をぶつける相手に「我が子」を選ぶ親もいる。そういった場合、子どもは親に必要なあれこれを教わることができない。私の親も、まさにそれだった。 だが、そんな私に生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたものがある。それが、「本」という存在だった。 このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた私=碧月はるの原体験でもあり、作家の方々への感謝状でもある。 * * * * * * * ◆孤独と寂しさの狭間で揺れる心 二度目の家出をして、「独りで生きていこう」と決めた私は、他者との関わりを極力避けて過ごした。会社の飲み会にも参加せず、ランチに誘われても断る。そうしているうちに、徐々に誰からも誘われなくなった。 そもそも私には、交際費にかけるお金がほとんどなかった。同じ仕事をこなしていても、中卒の私と大卒者では月給が10万円近く違う。それが当たり前の時代で、私はその現実を諦めと共に受け入れていた。 そんな折、たまたま出かけた先である男性に出会った。平たくいえばただのナンパだったのだが、その人からは嫌な臭いがしなかった。 そして、私は誰かと深く関わる気はないくせに、毎日やたらと寂しかった。私たちは時々気まぐれに会うようになり、一緒にご飯を食べたり、映画を観たり、体を重ねたりした。寂しさを埋められるなら、誰でもよかった。それはどうやら相手も同じだったらしく、彼もまた、私にすべてを委ねることなく、必要な時だけ会いに来た。 ある日、帰り際に彼が本を置いていった。私は何の気なしにその一冊に手を伸ばした。
◆『暗いところで待ち合わせ』 この時期の私は、本をまともに読むことさえできなくなっていた。かろうじて仕事には行く。それ以外は死んだように眠る。もしくは、取り憑かれたように街を彷徨う。おそらく当時の私は、能面のような顔をしていただろう。だが、彼が置いていった本のタイトルに無性に惹かれた。 『暗いところで待ち合わせ』――乙一氏による長編小説のタイトルを目にした時、明るい場所で生きられない自分を肯定してもらえたような気がした。 序盤の一節に惹かれ、そこから先は物語の海を漂うように、ゆっくりと体を浸した。“溺れる”というのとは、少し違う。ただ、ちゃぷちゃぷと音を立てて心が沈んでいくのを、外側から見ていた。強い引力を放たずとも、人の心を捉えて離さない。そういう物語があることを、この日はじめて知った。 “だれかに出会って、喜んだり悲しんだり、傷ついたりして、また別れる。それの繰り返しは、とてもくたびれそうだ。それならいっそ、最初から一人がいい。” 物語の主人公・ミチルは、視覚障害者だった。障害を理由に心を閉ざし、外に出る恐怖に怯え、家の中で体を丸める彼女の姿が、己の孤独と重なった。それはまったく同じ形ではなかったが、自分とどこか共通するものがあった。何より、私もミチルと同じく、あらゆることにとてもくたびれていた。