「この世は終わりだと思っても、それでも人生は続く」大槻ケンヂが苦悩と向き合いながら音楽を続ける理由
精神的に困ったときは「フランス映画みたい」と思って乗り越える
――いろいろと大変な状況を経験されましたが、そういうふうに心身が弱っているときはどう向き合おうと考えていますか。 大槻ケンヂ: 精神的にいろんな局面で困っているときは、「でも、昔のフランス映画みたいで良いな」って思うようにしています(笑)。渋くておしゃれでメランコリックな主人公のおじさんになった気分、というか。 肉体的につらい局面のときは、「夏の野外フェスに比べれば何でもない」って思うようにしてます。衣装も暑いし、絶叫するから、ライブは体力的に非常に大変ではあるんですけどね。 ――振り返ってみてコロナ禍はどんな体験だと思いますか。 大槻ケンヂ: 人が何を信じてるか、誰を大事にしてるか、誰を敵と思ってるかっていうことが、明確になったと思いますね。ミュージシャン同士でも、コロナやワクチンについて、それぞれ考え方が違うのがはっきりわかった。けれど、僕は「この人と全然考え方が違うけど、同じ音楽を共有しているから良いかな」と思うようになりました。ファンやリスナーとも、そういう付き合い方で良いと思っています。 僕は歌詞を作るとき、特にロックはそのときの社会状況とクロスしていかなければいけないって思ってるんですよ。コロナの最初のころ、もう良いことが何もないような日々だったじゃないですか。楽しいことがないから、せめてバンドマンが良いことを歌ってあげないといけないと思って、『君だけが憶えている映画』というアルバムの中で『楽しいことしかない』という曲や、コロナのことを書いた『COVID‐19』という曲を作ったんですね。 今までも、オウム真理教の事件や9.11の同時多発テロ、東日本大震災と、いろんな大きな事件があって、そのたびに「この世は終わりだ」みたいな感じになったけれど、それでも人生は続くでしょう。そしてまたきっと次の事件が起こるから。だから、そのたび、曲を作りながら世の中で起きることに関わっていかなきゃいけない。自分の楽曲の中にその出来事を組み込んで、次の出来事に備えるように乗り越えていくしかないのかなと思っています。 ----- 大槻ケンヂ 1966年、東京都生まれ。1982年にロックバンド「筋肉少女帯」を結成。脱退後、2000年より「特撮」のボーカリストとして活動を開始。2006年、筋肉少女帯の活動を再開する。音楽活動やタレント活動のかたわら、エッセイスト、小説家としても活躍。1994年『くるぐる使い』、1995年『のの子の復讐ジグジグ』で、日本SF大会日本短編部門「星雲賞」を2年連続受賞。 文:田中いつき (この動画記事は、TBSラジオ「荻上チキ・Session」とYahoo! JAPANが共同で制作しました)