「戦争は簡単に始まるけど、簡単には終わらない」戦争体験者・毒蝮三太夫が語る“平和への思い” #戦争の記憶
ロシアによるウクライナ侵攻が始まってから、約6カ月が経過した。侵攻開始直後は危機感や不安を募らせていたものの、時間が経つに連れて「慣れ」のようなものが生じている人もいるのではないだろうか。しかし、日本もかつては戦争を体験した国。「戦後77年間、戦争が起きていないからといって安心はできない。はっきり言って戦争は簡単に起こる」と話すのは、俳優・タレントの毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう)さん。幼い頃、戦争を体験した過去を持つ毒蝮さんに話を聞いた。(聞き手:荻上チキ/TBSラジオ/Yahoo!ニュース Voice)
「戦争は体験しないほうがいい」9歳で空襲に遭い、疎開した
――日本は今年で戦後77年を迎えます。毒蝮さんは戦争を体験していますが、今の日本人はほとんどの方が戦争を体験していません。 毒蝮三太夫: 戦争を体験していると言っても、「大東亜戦争(太平洋戦争)」が終わったときは9歳でした。二人の兄は戦争に行きましたが、無事に帰ってきたので、兄から兵隊のことや軍でのつらい体験を聞きました。日本に残っていた俺は空襲に遭って、その傷跡を引きずって86年生きているけど、終戦後日本は77年間、戦争がなかった。こんなにも長い間戦争がない国は、世界でも珍しいそうです。 ――戦中や戦後の生活では、どんなことを覚えていますか? 毒蝮三太夫: とにかく食べるものがなかったから、イモ1個のために死に物狂いのケンカをしていました。買い出しに行っても「統制」があって、米や酒、砂糖、タバコ、塩などの消費が制限されたし、食堂に行くためには「外食券」がないと食事ができない状態。俺たちにとっては白米がごちそうでした。お袋が固いメシを作ってくれたと思ったら麦だったこともあって、まるで馬が食べるエサのようだった。でも、生きるためにそれを食べるしかない。当時はそういうみじめな生活が当たり前でした。 ――毒蝮さんは空襲や疎開も体験されていますよね。 毒蝮三太夫: 当時9歳だったから本当は学童疎開に行かないといけなかったけど、「二人の兄が戦地に行っているからお前は残れ」と親に言われて、東京に残っていました。しかし、学童疎開するみんなを見送ったあと、1945年5月24日に発生した東京城南地区の大空襲に遭いました。数千人が亡くなったのですが、俺はお袋のおかげで、運良く助かった。 家が焼けてしまったから親父の実家がある横浜の戸塚に疎開をして、家から2キロくらい離れた小学校に通うことになったんです。当時は給食がなかったので、母親が白米の代わりに炊いてくれた「こうりゃん(米や小麦が育ちにくい土地でも育てることができるイネ科の一種。赤褐色)」を持っていきました。 ただ、俺は都会から来た新参者。一週間くらい同じこうりゃんの弁当を食べていたら、クラスの悪ガキが「お前、今日お祝いか? お赤飯じゃないか」って言うんです。こうりゃんと麦を混ぜているから赤飯に見えて、それをからかってくる。ケンカしようかとも思いましたが、ケンカしたらお袋が悲しむと思って「今日は親父の誕生日なんだ!」って嘘をついた。そしたら「昨日も一昨日もじゃねえか」って言ってくるんですよ。だから俺は「昨日はお袋の誕生日で、一昨日は戦争に行った兄貴の誕生日だ」って言って、うまそうに弁当を食べました。 そしたらその日、いつも一緒に帰ってくれる床屋の息子が家に来て、お袋に「学校でこんなことがあったけど、お弁当を全部おいしそうに食べていたんですよ」って言ってくれたんです。お袋は「そうなの」と一言だけでしたが、その時のお袋は観音様のようにきれいに見えて、「ケンカしないでおいしそうに食べてきてよかったな」と思いましたね。 今思えば、これらの体験も戦争がなければ起きなかったことですよね。田舎もギリギリの生活だったから、こうりゃんを食べるしかなかった。戦争は、体験しないほうがいいよ。