黒沢清×菅田将暉、映画『Cloud クラウド』が描く「現代」という恐怖
かつてアラン・ドロンが演じた、"真面目な悪役"という存在。
菅田 "普通の人"を演じようと考えると、八方塞がりになってしまうのですが、脚本にはやることが書いてあるので、それを遂行していけば演じられるだろうと思いました。(主人公の)吉井はむやみに人を傷つけたりしないし、自分だけのし上がってやるという野心家でもない。真面目に、目の前のことに取り組んでいる。ただそれが、傍から見ればちょっとウザかったり、気分悪いなって思うような瞬間があるだけ。
Masaki Suda
1993年、大阪府生まれ。2009年「仮面ライダーW」で俳優デビュー。ドラマ、映画、舞台と幅広く活躍し、映画『あゝ、荒野』(17年)で第41回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。17年からは音楽活動も開始、今年7月3日にサードアルバム『SPIN』を発売した。待機作に映画『サンセット・サンライズ』(25年1月公開予定)、Netflixシリーズ「グラスハート」(25年配信予定)がある。
──監督は吉井を演じるうえで、パトリシア・ハイスミス原作、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督)を菅田さんに観ていただいたそうですね。 黒沢 参考資料に何か渡すと考えた時に、ふと『太陽がいっぱい』が浮かんだんです。1960年の映画ですけど、主人公のトム・リプリーは、60年代から70年代前半ぐらいまでは映画に時折出てきていた、まさに"真面目な悪役"ですね。背景に貧困や差別とかが、まだ物語のテーマとしてドンと大きくあった時代に生まれた人物像。世の中に対して、拗ねて斜に構えて悪いことをするのではなくて、真面目に生きるために悪も辞さないという感じ。ほかにもいくつも例はあると思うんですけど、最もわかりやすいのはひょっとして『太陽がいっぱい』かもしれないと思って。ただ、なにしろ古い映画ですし、かつアラン・ドロンという独特の個性も強力なので、あれを観て菅田さんから「ワケがわからない」「つまらなかった」って言われたらまずいなあとか、ちょっと怖かったですけど、幸い「おもしろかったです」とおっしゃられたので、ピンと来ていただけたのだなと。なので、本来はキャラクターの細かい打ち合わせをやるべきだったのかもしれませんが、ほとんどもう『太陽がいっぱい』のことだけをベラベラしゃべって楽しく別れたんです。 菅田 "真面目な悪役"というキーワードをいただいていたので、そういう目線で観た『太陽がいっぱい』はすごくおもしろかったです。後半は特に、淡々と隠蔽工作したり、お金を隠したり、いろんなことをやっていくさまは吉井に通じるなと思いました。前半に、フィリップとリプリーが船で一緒にトランプをしているシーンがあるんですが、一気に緊張感が走るところがあったんです。セリフもなく、そこから殺し合いが始まるのか、と思えるくらい。でも、このふたりの間では、この後、何かは絶対起こるということはわかる。アラン・ドロンの顔だけでは、リプリーのその時の気持ちはわからないけど、観ている方の脳裏には鮮明に残る。もしかすると、吉井という人物の在り方ってこういうことなのかな、と。できるかどうかわからないけれど、こういうことを目指せばいいんだなって感じました。 ──『太陽がいっぱい』は、格差社会に生きる人間が陥る闇を描いた作品でもありますが、今日、貧困や差別は世界的にも映画の大きなテーマになっていると思います。 黒沢 もう何十年も前から、「貧困」、「差別」、そして「戦争」という問題は歴然としてあるにもかかわらず、それを映画というフィクションのドラマの根底に据えるのが非常に難しくなっている。これはどうしたことでしょうね。特に先進国、日本と限定してもいいかもしれませんけど、映画の設定として、特殊な宇宙人と戦うとか、特殊な状況を持ってくればそういうことはできなくもないんですけど、現代のごく普通の日常の中でというと、それら大きな3つのテーマがあるにもかかわらず、映画のパッと見の題材としては隠されてしまう。貧しい人と金持ちの人って、一見、違いがわかりませんしね。戦争は世界のどこかでは常に起こっていて、テレビをつければニュースでいつでも流れているのに、すぐ目の前では気配もない。僕は学者じゃないので断定的なことは言えませんけど、この数十年、そういう巨大なテーマ、問題のようなものを巧妙に隠すように仕組まれていったのかもしれない、とさえ思います。でも、その綻びは見えつつあるのかな。もう早々隠せなくなっているかもしれない気がします。 菅田 この映画の中でも「転売」や「闇バイト」といったインターネットでの事象が登場します。僕たちはインターネットに関する感覚でいうと、曖昧な世代なんです。生まれた時にはあまり使われていなかったけれど、高校生ぐらいからみんな携帯とかを持ち出した世代。まだスマホはなく、若干の不自由さもあった。でも僕より10年先輩になってくると、10代の時にはインターネットは使っていなかったりする。吉井に雇われるバイトの青年・佐野を演じた10歳下の奥平(大兼)くんの世代とかになると、多分物心ついた時からインターネットに触れてきている。「何かを探す」のではなく、持っているものを失う怖さを持っている世代なのかなと。だから、常に怯えていて、常に満足してなくて、向上心とか野心みたいな覇気が見えづらい。そういう意味での生きにくさが、いまの若者にはあるのかな、と感じますね。人と比べることを可視化できるのが、しんどかったりすると思うんです。かつては小学生の時に、無邪気に「俺ワールドカップで優勝するんだ!」ってサッカーを練習していたけれど、いまではすぐにSNSとかで地球の裏側のブラジルの同世代のサッカーのプレーを見られたりするから、「こんな奴いるんだ、じゃあ俺プロになれないじゃん」って絶望してしまう。情報もいっぱいあるからこそ、こういうのは大変そうだなと思います。