死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社」従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」
ひどい栄養失調とやけどの兵士たち
話は朝鮮から出発した日赤救護班へ戻る。 潘姫静さんらの「343救護班」は、広島に数日間滞在してから台湾へ向かう。先述した台湾人陸軍看護婦たちと同じ「台南陸軍病院」へ着いたのは1942年1月30日。この時、広島から台湾へは10班が送られ、そのうちの3班が台南だった。 ここへはラバウルで栄養失調になった兵隊たちが送られてきた。ここでの勤務に慣れた頃、フィリピンの「第14方面軍」への移動を命じられた。1943年5月24日にマニラへ上陸し、バギオへ向かった。 士官学校の校舎を接収した「第74兵站病院」には、約4000人もの患者が収容されていた。 ニューギニアやガダルカナルから送られて来た兵隊たちは、ひどい栄養失調により戦意をまったく失っていた。台湾とフィリピンとの間のバシー海峡で撃沈された船に乗っていた兵隊たちは、海面上に出ていた顔と手にひどいやけどをしていた。 潘さんが包帯を交換しようとしたら、関節の所から指がとれてしまった。「頭の骨が剥き出しになっている人から夜中に声をかけられ、びっくりした事があります。その姿は、今でも目に焼きついているほど」と言う。
劣悪な坑道内での看護
日赤救護班が勤務する場所は、戦闘が行なわれている危険な前線を避ける事になっていた。だが戦況が悪化すると、兵士たちと同じように、死と隣り合わせの状況に陥った。 1945年1月、山下奉文陸軍大将が率いる「第14方面軍」の司令部がマニラを撤収してバギオへ移って来た。「大海の魚群を狭い池の中に入れて捕らえる」として、ルソン島北部のジャングルでの持久戦をしようとしたのだ。その直後からバギオは、米軍の徹底的な爆撃を受けるようになる。 そのため1月末には、第74兵站病院の一部は343救護班を含めて避難を開始。バギオから東北東へ約16キロメートルにあるビッグウェッジ金鉱山を分院とした。軽傷患者は坑夫宿舎へ入ったが、数十人の重傷患者たちを収容したのは、3キロメートル近くある坑道内だった。 この中は真っ暗で、天井からは水滴が垂れてベッドの下には湧き水が小川のように流れているという劣悪な環境だった。看護婦たちは雨合羽を着てカンテラをぶら下げ、坑道内に敷かれたレール上のトロッコを押して水と食事を運んだ。この地獄のような状況の中で、負傷兵たちは手を合わせて看護婦を拝み、1日50グラムほどの食事を待ちわびていた。 ネズミやゴキブリ・ウジ虫が生きている患者の傷口をかじり、腐った患部からは骨が見えた。毎日のように麻酔を使わず足の切断がおこなわれた。「切り終わった時、つかんでいた足の重さが何とも言いようのない感覚でした」と潘さんは言う。 毎日、10人~20人が死亡。そうした患者をベッドから下ろすと、死体から離れたシラミで毛布は真っ白になっていた。蔡さんは、死者の扱いについて語った。 「患者が死亡すると看護婦は制服に着替えて見送りましたが、途中からはそれどころではなくなりました。死体をトロッコに乗せて運び、大きな穴に10人でも20人でもそのまま放り込んだんです」 敗走する日本軍と、運命を共にせざるを得なかった日赤と陸軍の看護婦たち。ジャングルでの逃避行の中で、兵士たちのおぞましい行為を目撃する。日本人看護婦からは語られることがなかった地獄のような光景を、韓国人と台湾人の元看護婦が語る。 後編『フィリピンのジャングルでの皇軍兵士のおぞましい「人肉食行為」…「日本赤十字社」の従軍看護婦にも“玉砕”の時が』へ続く (撮影日記載の写真は筆者撮影)
伊藤 孝司(フォトジャーナリスト)