死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社」従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」
台湾人看護婦も戦場へ
台湾で私は、さまざまな戦場へ送られた元従軍看護婦たちと会った。「私たち台湾人看護婦も、大和撫子(やまとなでしこ)として従軍したんですよ」と語ったのは黄玉緞さん。そして、戦場へ持って行った「千人針」を見せてくれた。兵士と同じように、“弾除け”として腹に巻いていたのだ。 黄さんは「陸軍病院」の看護婦募集に、妹と一緒に応募。4ヵ月間の教育を受けて看護婦になった。この陸軍看護婦は、最初のうちは日赤看護婦出身が前提だったが、次第に一般の看護婦からも採用するようになっていた。 黄さんは配属された「台南陸軍病院」で約1年間の勤務をした時に、「南方」へ行く看護婦に志願した。「陸軍看護婦台南班」は13人で編成され、その内の7人が台湾人だった。 1942年11月、黄さんは高雄港で妹に見送られてフィリピンへ向かう。勤務したマニラの「第12陸軍病院」の周囲には、色とりどりの花が咲き乱れていた。休日には、有名な“マニラ湾の夕日”を見に行ってアイスクリ-ムを食べたという。 こうしたのどかな生活は、1944年9月の米軍による空襲で終わった。12月23日には、マニラから北へ約250キロメートルにあるバギオへ向け撤退を開始。この都市は標高約1500メートルにあり、「松の都」と呼ばれる美しい避暑地だった。 ここの竹薮の中に、病院が開設された。「赤十字」の印が屋根に大きく書かれていたが、米軍機は500キロ爆弾を投下した。「爆撃で吹き飛んだ看護婦の肉片が、木に引っ掛かっていました。数百もの死体を埋めることも出来ず、月明かりを頼りに捨てに行ったんです」と黄玉緞さんは語る。 黄紡さんは初等教育機関である「麻頭女子公学校」を卒業すると、家族に黙って海軍看護婦の試験を受けた。麻頭から50~60人が受験し、合格したのはわずか3人だった。 家に届いた召集の通知を見た祖母は、「この家には男がいないのに、どうしてこんな物が来たんだろう」と驚き、その理由を知ってからは泣き続けた。日本本土での勤務を期待していたが、船が着いた先は海南島だった。海軍は、蒋介石軍からこの島を奪おうとしていた。 「島では看護教育だけでなく、小銃を担いでの軍事訓練がありました。病院が機銃掃射を受け、1発の弾が私の両足を突き抜け、さらに左手の薬指に当たって骨を砕いたんです。医者が指を切断すると言ったので、必死になって拒みました。その指は今でも変形しています」 台湾からニューギニアへ送られた日赤救護班もあった。私と初めて会った時、陳邁さんは「山田富美子」、張月華さんは「永田月子」と、植民地時代に使っていた名前で名乗った。彼女たちは台北の日赤台湾支部で看護婦試験を受け、1940年に救護看護婦養成所に入学。共に公学校卒業なので「乙種看護婦」だった。 日赤病院で勤務して約1年が過ぎた時、2人は「赤紙」で召集された。1943年3月、広島へ集合してから勤務地へ送られた。そこがニューギニアのラバウルだと知ったのは上陸してからだった。ここへ派遣された救護班は6班。台湾からの「第381救護班」には、台湾人は3人だった。 勤務した「第94兵站病院」へは毎日のように爆撃があった。このラバウルに9ヵ月間。フィリピンのセブ島へ移って、そこに約1年間。看護というよりも、逃げ回っていただけだったという。さらにレイテ島へ移動してからは、手溜弾が渡された。「日本の敗戦を知った兵隊の、自決する手榴弾の音が聞こえてきた」と陳さんは言う。 2人が台湾へ戻ったのは1946年3月。張さんのあまりにもやせこけた姿を見た家族は、それが誰なのかすぐには分からなかったという。