「まだまだ気仙沼は大丈夫だ」、震災2日後にそう信じることができた白い漁船
広告写真界の巨匠・藤井保が撮影するカレンダー
広告制作会社であり、クリエイティブ集団でもあるサン・アドの設立は、1964年にさかのぼる。 日本の洋酒メーカーであるサントリーのグループ企業として発足しており、創立メンバーには芥川賞作家・開高健や直木賞作家・山口瞳が在籍していたことでも知られている。 サン・アドのホームページには、現在でも「創立の言葉」が掲載されており、ユーモアと決意に満ちた文章を綴っているのもまた開高である。その一部を抜粋してみる。 〈総勢20名ばかりの小さなポケット会社ですけれど、スタジオもあれば重役室もあります。トイレは水洗ですし、カメラはリンホフです。鋭いデザイナー、読みの深いコピーライター、経験ゆたかなアート・ディレクター、そして重役陣には宣伝畑出身の芥川賞作家と直木賞作家がいます。手練手管の業師ばかりをそろえたとはかならずしもうぬぼれではないと思います。 この会社の特徴は徹底的な共和主義にあります。ギリシャの民主主義に従って運営されます。人の上に人なく、人の下に人なく、年功、序列、名声、学閥、酒閥、いっさいを無視します。仕事はすべて徹底的な討議の上で運ばれます。そして、いままでにない美や機智や率直さや人間らしさを宣伝の世界に導入しようと考えます。アメリカ直輸入の理論や分析のおためごかしを排します。あくまでも日本人による、日本人のための、日本人の広告をつくり、日本人を楽しませたり、その生活にほんとに役にたつ、という仕事をするのです。〉 2012年秋の出来事にも、サン・アドのはじまりのイズムは脈々と受け継がれていた。 斉藤和枝からの相談を受けたプロデューサーの坂東美和子は、このプロジェクトを共和主義で進められる座組みを作る。アートディレクター・吉瀬浩司。クリエイティブディレクター・笠原千昌。そして、プロデューサーに坂東である。 この3人を主要メンバーとして『気仙沼漁師カレンダー』は動き始める。 斉藤ら「気仙沼つばき会」の漁師に対する想いを汲みとった坂東は、写真がなによりも重要であると考えた。となれば、写真家の人選はなによりも大切なこと。 プロデューサーとして独断で決めてもよかったが、そこは共和主義のサン・アドである。 坂東は、このプロジェクトにおける気仙沼の女性たちの漁師への熱を伝えたあとで、吉瀬と笠原に向けてふたつの言葉を添えた。 「気仙沼の女将さんたちがこんなことを言っていたの。『国内のカレンダーとしてトップクラスなことはもちろん、世界に届くものを作りたいです』って」 「このプロジェクトならこの人にお願いしたいって思う写真家がそれぞれにいると思う。だから、みんなで同時にその人の名前を言ってみない?」 吉瀬と笠原が、異議なしと言う代わりにうなずく。 坂東の合図で3人が同時に口を開く。 「藤井保さん!」 会議室に響いたのは、同じ写真家の名前だった。 1949年生まれの藤井保は、「日清カップヌードル」や「JR東日本」の広告写真、『ニライカナイ』『AKARI』といった写真集を世に送り出し、とくに、JR東日本の「その先の日本へ。」は徹底的な現場主義の写真が話題となる。 広告で取り上げる場所へ実際に赴いた上での撮影だったため、藤井は年間約300日も日本各地を旅していた。 そして、『気仙沼漁師カレンダー』には、もうひとりのメンバーが加わることになる。 入社して間もない荒木拓也である。 荒木が「ぜひ、自分も参加させてください」と坂東に直訴したのは、気仙沼への想いからだった。 大学生の頃、ボランティアで同地に赴いたことがあり、震災の爪痕を目の当たりにしていた。サン・アドに入社したタイミングで『気仙沼漁師カレンダー』というプロジェクトが動き出すだなんて、荒木は縁を感じずにはいられなかった。坂東は荒木の参加を歓迎した。 こうして、サン・アドチーム4人と写真家・藤井による『気仙沼漁師カレンダー』は静かに、熱く、動き始める。
10名の日本を代表する写真家のフォトも収録!
ギャラリーアイコン すべての画像を見る 文/唐澤和也 構成/「よみタイ」編集部 ※「よみタイ」2024年11月28日配信記事
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