「まだまだ気仙沼は大丈夫だ」、震災2日後にそう信じることができた白い漁船
震災2日後の真っ白い漁船
あの時がそうだった。 2011年3月11日、未曽有の被害をもたらした東日本大震災。 「私、震災から2日後に海の近くにあった斉吉商店の工場のあった場所へ行ってみたんです。避難していた叔父の家から、震災前なら1時間もかからない道のりを半日をかけて。高台から見てダメだというのはわかっていたんですけど、それでもどうしても自分の目でたしかめたかったんです。 でもやっぱり、工場は全部流されていて基礎しか残っていませんでした。泣きました。散々泣いて、でも、しょうがないって自分をどうにか納得させて帰ろうとした時、真っ黒に焦げてしまった船が並ぶ港に、真っ白い船が帰ってきてくれたんですよ。数日前に気仙沼から出港した、無傷の真っ白い漁船でした」 見上げると真っ青な空が広がっていた。 なのに、震災前はあれほど美しかった気仙沼の海には焼け焦げた黒い船しかいなかった。 真っ黒の世界に、ふっと現れた真っ白な漁船。 見た目には無傷だが、その漁船の帰港はイチかバチかの賭けでもあった。目視がきかない海の底には津波に流された家などが沈んでおり、船底を傷つけて損壊するリスクがあったからだ。 それでも、漁師たちは気仙沼に戻ることを選ぶ。出港時に積み込んだ水や食料を全部おろして、少しでも気仙沼の人々の役に立てたならと。 斉藤はふたたびの涙を流した。だが、2度目の涙は悲しい色をしていなかった。 別の場所で、小野寺も黒い世界に舞い戻ってくれた白い船を見つめている。 「震災の夜、私は魚市場の屋上で一晩をすごしました。あの夜、津波で流出してしまった重油に火がついて、気仙沼湾は一面の火の海で。そんな夜が明けて、屋上から町を見渡せるようになったんですけど、終わったと思いました。魚市場のまわりの工場はすべて流されていて、気仙沼の経済の90パーセントが終わったなって。気仙沼は漁業が町の営みをまわしていましたから。 でも、それから数日後のことです。和枝さんも見た白い近海マグロ船が、気仙沼に帰ってきてくれたんですよ。真っ白で、とっても美しくて。はじめてでした。子どもの頃から何千回と見てきたから、マグロ船の白い色をきれいだなんて思ったこともなかったけど、本当にきれいだった……。 その時〝あぁ、私たちには沖で操業しているマグロ船がいてくれるんだ!〟って、ふっと心に光がさすように思えたんです。マグロ船は一隻で何億も稼ぐ海の上の工場のようなもの。 たとえ、いま目の前に広がっている気仙沼の経済の90パーセントが終わってしまったとしても、沖には経済をうみだしてくれる漁師さんたちがいてくれる。だったら、まだまだ気仙沼は大丈夫だ。そう信じることができて、よし!って」 長野県へ向かう新幹線の車内で、もうもうとふたりで盛り上がった翌日。 斉藤は、「金のさんま」などの自社商品で仕事をともにしていた東京の広告制作会社関係者に直接会いに行く。長野県へ向かった時のような気仙沼弁全開ではなかったが、それでも、小野寺と自分の想いを、東京のその人に語り尽くした。 「ぜひ、やりましょう!」 立ち上がって固い握手で応えてくれたのは、株式会社サン・アドのプロデューサー、坂東美和子であった。