「人類の利益」のため?故郷奪われた太平洋の人々の今 ビキニ水爆70年、目の当たりにした「終わらない」被害
マジュロでの追悼式典から6日後。エジット島で集会が開かれた。苦難の記憶を忘れないよう、毎年3月7日に催される「もう一つの式典」。冒頭、参加者約100人は悲しげな歌声を響かせた。 「もう幸せには暮らせない」「私の魂は漂ったまま」―。 旧島民の1人が強制移住直後に詠んだ望郷の詩を元に生まれた「アンセム」。英語で国歌を意味する。「歌うと、真の故郷はビキニだと確信するんだ」と、ジョエルは誇らしげだった。子どもらもそらんじていた。 78年前の強制移住体験者は10人を切った。「彼らはいつか帰れると信じていた。いまだ『いとしいわが家』と呼べる場所はどこにもない」。あいさつに立ったジーボクは声を震わせた。「実験も、この大量破壊兵器を一発でも使うことも、良いことではない。人々が故郷と生活を失うのだから」 ▽「同じ思い二度と」 記憶の継承はビキニの人々だけではなく国全体の課題だ。政府機関「核問題委員会」で教育普及を担当するエベレン・レレボウ(44)によると、約40年間、米国の施政権下にあったマーシャルでは、1986年の独立後も長く米国の歴史の教科書が使用され、教師ですら被害の詳細を知らない人が多い。
委員会は核実験による被害の補償や環境修復などを実現するため、2017年に誕生した。当時を知らない世代の教育も重点項目の一つに掲げる。教育省がこの年に社会科のカリキュラムを刷新するのに伴い、核実験被害を人権問題として履修項目に組み込んだ。都市部の学校で授業を試行し、一から教材作りを進めている。 改革の先頭に立つレレボウの養母リジョン(故人)は、ビキニ環礁から約180キロ離れたロンゲラップ環礁でブラボー実験の「死の灰」を浴びた胎児を含む住民86人のうちの1人。実験から3年後の1957年、米国の安全宣言を受けて帰還したが、流産や死産、これまで経験したことのない病気が多発し、1985年、再び故郷を離れた。 リジョンは7回流産し、甲状腺の病気を患った。国会議員として国際社会に反核を訴えてきた一方で、娘には長く詳細を語らなかった。レレボウが母の苦労を初めて知ったのは米国の大学に通っていたとき。突然リジョンから彼女の伝記が送られてきた。そこには、これまで直接聞いたことがなかった母の人生が綴られていた。