「人類の利益」のため?故郷奪われた太平洋の人々の今 ビキニ水爆70年、目の当たりにした「終わらない」被害
ジーボクの祖母らビキニ住民167人が故郷を追われたのは、ブラボー実験からさかのぼること約8年、1946年3月7日のこと。いくつかの島を転々とした後、故郷から約800キロ離れた「絶海の孤島」キリ島に行き着いた。波の穏やかな内海がなく、カヌーで漁をし、離島へ食べ物をとりに行く伝統的な生活は困難に。米軍が支給する食料に頼るしかなくなった。 最後の核実験が終了してから10年後の1968年、米国は残留放射線のレベルは「安全」になったと宣言。本島など環礁の一部を除染し帰還を促した。十数家族が戻ったが、その後、環境中や住民の尿から高線量の放射線が検出されるなどし、再び退避した。 多くはマジュロ環礁内のエジット島に渡った。だが、歩いて20分ほどで一周できてしまうほどの大きさしかない島で、自給自足は難しかった。近年では気候変動の影響で高潮が激化。土地の浸食が進み、住宅の浸水被害も頻発している。 1968年の「安全宣言」を受けてビキニに家族で帰還し、その後エジット島に移住したローニー・ジョエルは「ココナッツ、パパイヤ・・・。ビキニにはたくさんの食べ物があった。エジットでは(輸入された)米や缶詰ばかり食べている。放射線は関係ない。ビキニに帰りたい」と嘆いた。
▽苦難の記憶つなぐ 自治体には推計約7千人が所属する。ただ、より良い暮らしや教育、高度な医療を求めて渡米する人が後を絶たない。キリ出身のジーボクも11歳から約15年間、家族と移住。昨年11月に首長に選ばれるまで「故郷」を見たことはなかった。「砂浜は美しく、食べ物がたくさんあった」。祖母の話からその姿を想像した。 現在ビキニに立ち入ることはできるが、「環礁全体がきれいにならなければ、かつての暮らしを取り戻せない」。再居住に向けた補償基金はあるものの、自治体民に配る食料や燃料に消えてしまう。 エジット在住の大学生、ゾバニ・ジョエル(26)はハワイで生まれた。強制移住を体験したのは曽祖父母の代。仮にビキニに住めるようになっても、定住したいとは思えないと率直だ。一方、「先祖の土地は体の一部のようなもの。死んだら、埋葬してほしい」。大切な自分の一部を「盗んだ」米国には怒りを感じている。