あまり「速くない」グループBマシン シトロエン・ビザ・トロフィー(1) NAの1219cc 4気筒は104ps
ラリーへ古くから参戦してきたシトロエン
高い自由度が故に、既存マシンへ手を加え、ブループBとして再公認を受けることは難しくなかった。多岐にラリーへ挑んでいた当時のシトロエンは、短時間に書類を整え認可を受けたようだ。 同社とラリーとの結びつきは古く、1959年にはラリー・モンテカルロをDS19で圧勝。1966年と1967年はDS21が好成績を収めた。1961年のリエージュ・ソフィア・リエージュ・マラソンラリーでも、過酷な内容で誇るべき勝利を納めている。 1968年には、英国ロンドンからオーストラリア・シドニーを目指したロンドン・シドニー・マラソンラリーにも参戦した。残り50kmというポイントで、ワークスマシンはBMCミニと衝突し、勝利を逃しているが。 ファクトリー・チームの態勢が整えられた1971年には、ラリー・モロッコでシトロエンSMが優勝を掴んだ。ところが経営難に陥り、当面の参戦休止が決まる。 その後、1980年にシトロエンはラリー復帰を決断。費用を抑えつつ若い世代の獲得を狙った時、モータースポーツでの活躍は当時の好適な手段になった。格上のカテゴリーへステップアップを目指す、若手ドライバーの取り込みも想定された。 マシンに選ばれたのは、小さなハッチバックのビザ。実際はワンメイク・イベント用に開発されたマシンだったが、今回ご紹介する1台は、世界ラリー選手権のステージを実際に戦っている。
徹底的な軽量化 1219cc 4気筒から104ps
ベースのビザに載っていたのは、フランス・ドゥヴラン工場で生産された1219cc直列4気筒エンジン。PSAグループ傘下にあったプジョー104や、ルノー14 TLと基本的には同じユニットだった。 ビザ・トロフィーでは、本格的なラリーカーとして徹底的に軽量化。ボンネットとドア、テールゲートは、グラスファイバー(FRP)製へ置換された。 ウインドウの殆どは軽量なアクリル製へ交換され、走行に不要な内装などはすべて撤去。生産を請け負ったのは、フランスに存在したコーチビルダー、ユーリエ社だ。 4気筒エンジンは、シトロエン・コンペティション部門によって2基のウェーバー・キャブレターが組まれ、チューニング。104psの最高出力が引き出された。 ロールケージや安全装備も与えられ、新進気鋭のドライバー、ジャン・ピエール・ニコラ氏やミシェル・ムートン氏にピッタリのホットハッチが完成。トロフィー・インターナショナル・ビザが、公式のシリーズ戦として1982年に設けられた。 そのワンメイクレースへの参戦に求められた金額は、約5200ポンド。欧州全域で101ものイベントが設定され、チームの予算や本拠地から、参戦イベントを選ぶことが可能だった。総合的な順位は、少々複雑なポイント計算で決められた。 この続きは、シトロエン・ビザ・トロフィー(2)にて。
リチャード・ヘーゼルタイン(執筆) 中嶋健治(翻訳)