ソ連に取り残された日本人「両親は帰国せず死んだ」 幸せ築いたウクライナで2度目の戦争、命がけの出国と決断 #戦争の記憶
戦争で樺太(ロシア極東のサハリン)に取り残されたまま、失意のうちに亡くなった両親の故郷を訪ねたい。2024年8月、降籏英捷さん(80)はその思いを胸に、長野県安曇野市に向かっていた。 【写真をみる】「しばらく来られなくなる…」ウクライナで亡き妻と息子の墓石に“別れ” 「両親は戦後、ずっと日本に帰りたいと強く思っていました。その夢を自分たち子どもが叶えたいです」 降籏さん自身も第2次世界大戦とロシアによるウクライナ侵攻の2度の戦争に人生を翻弄された。その波乱の80年を追った。 (TBSテレビ 西村匡史)
「孫娘らを救うために」 命がけのウクライナ脱出
2022年3月8日、私はウクライナから避難しようと試みていた降籏さん一行を隣国ポーランドで緊張しながら待ち受けていた。サハリン残留邦人の支援をしている日本サハリン協会の斎藤弘美会長から「ウクライナから出国しようとしている日本人を助けてほしい」と連絡が入り、3日間に渡って降旗さんの到着を待っていたからである。 降籏さんはウクライナの首都キーウから西に約140キロ離れたジトーミルで50年近く暮らしてきた。軍事施設があるジトーミルでは、ロシア軍のミサイル攻撃が続き、連日、空襲警報が鳴りやまない。自宅近くの集合住宅も爆撃されて多くの犠牲者が出たが、妻子が眠るこの地を離れるつもりはなかった。 しかし、孫のデニスさん(30)に、デニスさんの妻インナさん(27)と娘のソフィアちゃん(2)、妹のウラジスラワさん(17)を日本に避難させるよう頼まれ、出国することを決意した。
戦禍での移動は容易ではなく、そもそも日本政府が4人を受け入れてくれる保障はなかった。南樺太で生まれ、1歳のときに第2次世界大戦で取り残された降籏さんは、16歳でソ連国籍(その後、ウクライナ国籍)を取得し、日本のパスポートは所持していない。日本語もほとんど話せず、心臓に持病も抱えていることもあり、不安は尽きなかった。結局、自宅を出てから国境を超えるまでに計3日間を要したが、無事にポーランドに入国することができた。 「こんにちは。降籏さんですか?」。初対面で問いかけた私に対し、降籏さんは「こんにちは」と、たどたどしい日本語で返事をした後、ロシア語で続けた。 「ウクライナに残りたかったです。でも彼女たち3人を戦争から救うためには、私が日本に連れていくしかないのです」 手に持った大きなバッグから、日本人の両親と幼少期の自身が写った写真を取り出す。悲しげな表情を浮かべながら私に見せ、日本語で言葉を継いだ。 「おとうさん、からふとで、しんじゃった。おかあさん、からふとで、しんじゃった」