ソ連に取り残された日本人「両親は帰国せず死んだ」 幸せ築いたウクライナで2度目の戦争、命がけの出国と決断 #戦争の記憶
ソ連で妹は凍死 学校ではいじめ「殴られ、服を脱がされた」
第2次世界大戦の末期1945年8月9日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本統治下にあった南樺太に侵攻。この地で生まれた降籏さん(当時1歳8か月)は、両親と2人の兄姉とともに取り残されて終戦を迎えた。 終戦当時、千島列島を含む樺太地域にいた日本人は約40万人で、ソ連の侵攻を受け約5000人が犠牲になったとされる。降籏さん一家のように帰国の機会を逃して取り残されたサハリン残留邦人が多数発生した。 灯台守だった父、利勝さんは引き揚げ船を最後の1隻まで見送るため帰国できず、その後、魚の加工工場で働いたが、一家は極貧の生活を送る。母、ようさんは飢えをしのぐためジャガイモを植えたり、山菜を採ったりして、最低限の食料を確保した。 1948年12月のある冬の朝には、生後3か月の妹が冷たくなって亡くなっていた。極寒のこの地で、夜中に布団がはだけて凍死したのである。畑で荼毘に付し、父は自身で作った箱に遺骨を入れ、生涯、大切に保管したという。
降籏さんの幼少期は「いつも空腹」で、ソ連兵の兵舎から塩漬け肉を盗んだこともあった。学校では日本人であることだけを理由にいじめられることもあり、酷いときには「殴られ、服を脱がされたこともあった」という。 両親は何度も日本への帰国を申請したが、ソ連当局に認められず、失意のうちに亡くなった。 「2人とも落胆していて、特に日本語しか話せず家から出ることが少なかった母にとっては辛かったと思います」
ウクライナで築いた幸せな家庭 そして突然の妻子の死と侵攻
過酷な幼少期を送った降籏さんだが、転機となる大きな出会いがあった。高校卒業後、製紙工場で働きながら猛勉強の末、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の工科大学への奨学金付きの進学が認められた。そこで出会ったのが後の妻となるリュドミラさんである。 「彼女は美人で、控えめながら芯が強い女性でした。52年間の結婚生活で1度も喧嘩したことはありません。お互いに理解し、尊重し合って生きてきました」 1966年に学生結婚をして、2年後、一人息子のビクトルさんが生まれた。 降籏さんはリュドミラさんの故郷であるウクライナに移住。工場勤務などを続けながら50年近くジトーミルで暮らし、引退後は夫婦で野菜作りなどを楽しんだ。2人の孫、ひ孫にも恵まれ、自身が築いた家族の幸せを噛みしめていた。