冷戦終結後のアジアと日本(5) 「地域研究」の可能性―歴史を踏まえた中国分析:天児慧・早大名誉教授
日本のアジア認識、アジアとの関係性の変遷について、歴代のアジア政経学会理事長に振り返ってもらうインタビュー企画。第5回は天児慧・早稲田大名誉教授に、 2000年前後のアジア情勢と地域の課題について振り返ってもらった。 (聞き手:青山瑠妙・早稲田大学大学院教授)
アジア通貨危機と東アジア共同体論
青山 瑠妙 天児先生がアジア政経学会の理事長を務められましたのは、1999年から2001年という世紀の境目で、世界も大きく変わりました。先生は当時のアジア情勢をどのように捉えていらっしゃいましたか。 天児 慧 1990年頃から1つの流れができていたと思います。非常にダイナミックな流れで、経済が発展し、政治も変動していく時代でした。中国も進路を模索している過程にあったと思います。89年に天安門事件が起こり、それを乗り切る中で、経済発展に力を入れました。それでも私の目から見ると、中国はそれほど積極的に90年代後半のアジア通貨危機に対応したようには見えないのです。今から見れば、中国は貢献したと言うのかもしれませんが、当時の中国にそんなに余裕はなかったように思います。 地域統合について言えば、日本と韓国の金大中大統領、マレーシアのマハティール、フィリピンのエストラダらが東アジア共同体を作ろうという声をあげていました。その頃私が思っていたのは、中国がなぜこの東アジア共同体論に積極的に関わってこないのかということでした。おそらく、2000年の段階で、中国はまだGDP(国際総生産)で言えば日本の4分の1程度だったので、まだ積極的に外に貢献する、影響力を発揮するという時期ではなかったのだと思います。 その後、中国がASEAN(東南アジア諸国連合) とFTA(自由貿易協定)を結んで、積極的に地域統合の最初の成果を上げようとしました。ただ、その頃の中国のアジア地域統合へのスタンスについて、実は私はよく分からなかったのです。この問題について、日中の学者たちはそれぞれ自分の思いを描いて議論しました。中国共産党関係者は地域統合に関しては非常にシビアで、特に戦略的な発想からいかにアメリカをその地域統合から排除するかという点を重視していました。中国のリーダー的な研究者とこの問題について随分議論したものです。