非業の死から2年…いま明かされる『村田兆治という生き方』“不可解な死の真相”を真っ向から否定する著者が綴った“サンデー兆治”との35年
最初に心を開いたのは村田ではなく落合
三浦さんが村田さんと知り合ったのは、日刊スポーツのロッテ担当記者となった1986年のことだった。 その頃のロッテは万年Bクラスの弱小チーム。そこで三浦さんが目をつけたのが前年にカムバック賞を獲得した村田兆治投手と2度目の三冠王を獲得した落合博満内野手だった。 グラウンドではとにかく2人の動きを徹底的に観察し、気づいた小さな変化や疑問を直接、本人にぶつける。そんな繰り返しの内に、2人は次第に三浦さんに心を開き、本音を話してくれるようになっていった。 最初に心を開いてくれたのは、実は村田さんではなく落合さんだったという。 《キャンプインから1週間ほど経ったころだった。ホテルの自室で原稿を書いていると突然、ノックの音がした。誰だろう? と思いながらドアを開けると、そこに立っていたのは夕食を終えたばかりの落合だった》 落合さんは部屋に入ってくると、仕事中の三浦さんを横目に、東京から送られてきた1日遅れのスポーツ各紙を読み耽った。まだインターネットもない時代で、それが数少ないキャンプ地での情報源だったのである。 翌日も、その翌日も落合さんは部屋にやってきて、時には三浦さんが食事に出かけても、部屋に居座って新聞を読み漁ることもあった。
落合からのメモ「明日までに答えを考えておけ」
そんなある日、部屋に戻った三浦さんに落合さんからある“お土産”が残されていた。 《原稿用紙の裏面に描かれたイラストが置かれ「この図が何を意味しているか、明日までに答えを考えておけ」とのメモが残されていた》 イラストはマウンドのプレートの横から線、点線、破線がそれぞれ緩やかな曲線を描いてホームプレートの右角と左角ギリギリを横切る図だった。翌日、部屋にやってきた落合さんに三浦さんが自分なりの答えを言うと「まあ50点かな」と言ってこんな説明をしてくれた。イラストは上手投げ、横手投げ、下手投げの投手が内角と外角のギリギリを狙った時のボールの軌道だという。それぞれにできる三角ゾーンをイメージして、落合さんはストライクとボールを見極めて打つのだという。 《これまで「点ではなく線で打て」といった打撃理論は何度も耳にしたが、「ゾーンで打つ」と解いたのは落合が初めてだった》 落合さんと親しい記者、食い込んでいる記者は何人かいる。ただその多くは落合さん本人というよりは、信子夫人の信頼を得ることで、落合さんが話をするようになった記者がほとんどだった。落合さん本人が信頼して、自分から心を開いた記者は、筆者の知る限りではたった2人しかいない。そのうちの1人が実は三浦さんなのである。 そうして次には村田さんも、向こうから声をかけてくれるようになった。 シーズン中のとあるとき、三浦さんは村田さんから、投球練習で打席に立ってくれるように依頼される。 《「三浦、悪いが打席に立ってくれるか?」予想だにしない依頼だったが、こんなチャンスはめったにあるものではない。「ありがとうございます。立たせてもらいます」と言って、右バッターボックスに立った。兆治さんは、「ストレート」と球種をキャッチャーに伝えると、両腕を大きく振りかぶり、グッと沈み込んで右腕を真っ向振り下ろすマサカリ投法で投げ込んできた。快速球が空気を裂く音がしてキャッチャーミットに吸い込まれた。その迫力は、ネット裏から見るそれとはまったくの別ものだった》
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