〈没後22年〉政治家・石井紘基は誰に殺されたのか? 彼が知った「日本がひっくり返るくらい重大なこと」とは?
1冊の本を頼りに石井さんを信じた
泉房穂が石井紘基と出会ったのは、20代の頃。当時、テレビ朝日の契約スタッフとして、「朝まで生テレビ!」などの制作に参加していた泉は、1冊の本に感動する。タイトルは、『つながればパワー 政治改革への私の直言』(創樹社、1988年)。 1960年代に社会主義国家のソ連に留学し、帰国後に社会民主連合で事務局長を務めていた無名の新人、石井紘基の著書だった。 泉 当時は知名度もなかった石井さんが、大きな組織に依拠せず、「市民と市民がつながったらパワーになる、社会を変えられる」という思いで、国会議員立候補を決意して書いた本なんです。 この本を私はたまたま、25歳の時でしたけど、高田馬場の芳林堂書店で、背表紙を見て立ち読みして、感動して、引き込まれる本を買って、知りもしない著者である石井さんに手紙を書いたわけです。 「あなたのような方にこそ、ぜひ政治をやってほしい!」と。この人は本物だと私は思いました。その後、二人で選挙運動をして、私が応援した1990年の衆議院議員総選挙では当選できなかったけれど、次の1993年に石井さんは衆議院議員になり、「官僚国家 日本」の闇に迫る活躍をなさいました。 私は1冊の本を頼りに石井さんを信じ、石井さんの背中を追いかけ、そして「まずは弁護士になりなさい。弱い人の味方になりなさい」といった石井さんの言葉を信じて生きてきました。 その立場から、安冨教授の話もそうですし、紀藤先生の話を聞いていても、「石井さんは本物だったな」と改めて思っていて、ターニャさんのような実の娘ではありませんけど、私も息子のような思いで、石井さんが今評価されていることをうれしく思っています。 石井 父の死後、国会で数多くの法案をつくったのは、泉先生ですから。2003年に衆議院議員に当選なさって、2年間で膨大な法律の原案を一人でつくって。形式上は先輩議員の名前を載せて提出しないといけなかったけれど、私の秘書時代の仲間で、議員となった友人達から、「当時の議員立法は全部泉さんがつくった」と聞いていました。 そして泉先生の最初の国会質問「総合法律支援法案に関する国会質問」は、魂の叫びでした。今回の本にも再録されていますが、本当に鳥肌が立つような、涙が出るようなすごい質問だったと、同期の議員の間でも語り草になっていました。父の魂も残っていると思ったと。 泉 2002年に石井さんが亡くなられて、翌年に私が遺志を継ぐ形で国会に議席を得て、石井さんのやりかけであった「被害者救済」に着手しました。紀藤さんと一緒にオウム真理教事件の被害者も含めて、犯罪被害者を救うと。 石井さんは、国の不透明なカネの流れを追う不正追及のみならず、そこに被害者がいれば全ての被害者を救い切るという弱者救済に、「それは政治家の責任だ」という思いで取りかかっていた。なので、私は少なくとも「弱者救済」は引き継ぎたいと思って、石井さんの後を継いで、その後、「犯罪被害者基本法」の制定などに、議員立法で関わらせていただいたわけです。 ですから弱者救済については、「石井さんのやりかけていたことを果たしたい」という思いは、ありました。ただ、石井さんのもうひとつの正義であった「国家の不正追及」については、私は研究していなくて……。 石井 泉さんの専攻は教育哲学でジャンルも違います。父は法哲学科の出身で、どちらも哲学というのが根底にあるように思います。 父にとっては、学生運動の時に体をはって学生を守った社会党委員長の江田三郎さんのイメージが大きかった。その時の国民を守る姿が、いつも父の脳裏にあり活動の原動力となっていたのではないかと思います。泉さんと父では、世代の違いや取り組む課題も、それぞれ違うのは良いと思います。 父は、坂本龍馬が好きでした。坂本龍馬がいいかどうかは別として、龍馬のように「自分は太く短く生きるんだ」みたいな決意がどこかにあったのではないかと思います。 父は60年安保の世代で、学生運動のリーダーだったんですよね。デモ隊が国会の門に押し寄せて、国会議員はみんな安全なところに隠れているわけです。そして警察が暴力的にデモ隊を鎮圧しようとする中、ただ一人、老境の江田三郎さんが警官の前に立ちはだかり、ホースの放水を浴びていた。 国会議員という立場にも関わらず、権力側ではなく、学生の側に立っていた。父はその姿を見て、感動したという話なんです。 だから多分、父は江田三郎さんを常に意識していて、「政治家の姿」を貫こうとしていたという気がするんです。 そして、もう一つの原動力は、父が亡くなった後、地元の支援者の方々と会うたびに、「ああ、父はこの方たちの顔をいつも思い浮かべていたから頑張れたんだな」という気持ちが自分の中に湧いてきたんです。だから、きっと父は、自分を支えてくれている人たちを、いつも脳裏に浮かべながら頑張っていたのだと思います。 でも一方で、テレビのドキュメンタリー番組(「『日本病』の正体~政治家 石井紘基の見た風景」フジテレビ、2003年)でも公開されたように、父が友人に宛てた最後の手紙には、「こんな国のために命を懸ける必要があるのか、自問自答している」みたいな葛藤もありました。それは多分、この国の腐敗した仕組みや、権力にぶらさがる勢力のことを言っていたのだと思います。 そんな中で、父は絶対に脅しにも屈しなかった。安冨先生も、「脅しに屈しないというのは、石井紘基の原動力が知的好奇心だったからだ」とおっしゃっていましたが(第2回に掲載)、同時に、江田三郎さんの姿を思い浮かべて、「危険にも恐れず立ち向かう」ようなところが父にはあったのではないかと推察しています。