生稲晃子、怖かった二度目の乳がん再発 “普通”に接してくれた家族に感謝
手っ取り早くお金がもらえる? バイト感覚でおニャン子に入る
そうまでして、なぜおニャン子に入りたかったのか。 「この話をすると皆さんに笑われてしまうのですが、お金がほしかったんです」そう明かすと、自ら楽しげに笑う。 「手っ取り早くお金がもらえるのは芸能界だって勘違いしていたんです。“夕ニャン”は夕方5時から1時間、番組に出さえすればいいんだと思っていたんです。バイト感覚ですよね。当時、部活でバレーボールをやっていたのですが、ジャージもシューズも穴があいていて、おなかもすいてお弁当のほかにパンを買いたい。でもお金がない。よし、それじゃあお金を自分で調達しようって」 とはいえ、もちろん芸能界自体にも関心はあった。小学生の頃からテレビが大好きで、歌番組からドラマ、バラエティーと、ありとあらゆる番組を見ていた。1週間の番組表が頭に入っているような状態で、周囲からは“歩くラテ欄”といわれていたのだとか。 「友達のお母さんがうちの母親に、『あっこ(晃子)ちゃんはすごい。テレビのこと何でも知ってる』って話すと、母親には『お前は何をやってるんだ、勉強しろ』って怒られました。ただ、だからって自分が芸能人になるとはまったく考えていませんでした」
芸能界は甘くない 一人になって実感、「おニャン子クラブ」という看板の大きさ
実際におニャン子クラブに入ってみると、それまで自分が抱いていたイメージがいかに甘いものだったか思い知らされた。 「いや、すごかったですね。私がオーディションに合格したのは86年の6月13日だったのですが、そのとき会員番号4番の新田恵利ちゃんの卒業コンサートがリハーサル真っ最中だったんです。スタッフさんから、『明日からリハに出られるかっこうしてきて』っていきなり言われて、金曜日に合格したと思ったら翌日の土曜日にはもう夜中までリハーサルでした」 当然、生活は激変する。 「もう次の週には、朝、家から学校へ行くまでの間、カメラを持った男の子たちがいっぱいいるわけです。最初、何がなんだかわからなかったんですけど、『あ、私を撮ってるんだ』って気づいて。生活がまったく違うものになっていきましたね。いま自分に何が起きているんだろう、いつも見られていてちょっと怖いなって」 おニャン子クラブの活動期間は、わずか2年と数カ月程度のものだったが、その短い期間に強烈なインパクトを残した。生稲は、その後半の約1年、おニャン子として活動したことになる。グループ解散後、一人になってからあらためておニャン子の看板の大きさを意識せざるを得なかったという。 「おニャン子クラブのメンバーだったときは、いきなり大きな番組に出させて頂きました。でも解散して1年後、ソロになった私は、ただの1人の新人です。一から全国のレコード店をまわってキャンペーンをしたり、デパートの屋上で歌ったり。おニャン子クラブの偉大さを、あらためて感じた私でした。今でも、おニャン子があったから今の自分があるんだという思いが強いですね」