生稲晃子、怖かった二度目の乳がん再発 “普通”に接してくれた家族に感謝
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女子高生を中心とした素人っぽさをウリに国民的アイドルとして人気を博した「おニャン子クラブ」が解散したのは、1987年の秋。派生ユニット「うしろ髪ひかれ隊」の活動は翌年春まで継続したが、会員番号40番の生稲晃子が一人になって芸能界を歩み始めてから、かれこれ30年以上の月日が経つ。近年は乳がんの治療を続けながら「スイッチ!」(東海テレビ、毎週火曜)、「直撃LIVE!グッディ」(フジテレビ系、毎週水曜)のレギュラー番組を中心に活動する。50歳、一女の母でもある。歩んできた道のりを振り返ってもらった。
意外にも「おニャン子」は学業優先 学校側は2つの約束守ることを条件に芸能活動を許可
「おニャン子時代は忙しかったですね。でも、学校行事や試験の1週間前は仕事を休んで勉強に集中しなさい、ということでしたし、フジテレビさんは普通の高校生活を優先させてくれていたんです。授業後の掃除も、ちゃんとやってからきなさいって」 おニャン子クラブが出演する“夕ニャン”こと「夕やけニャンニャン」は、平日の夕方、午後5時から6時にかけて生放送されるバラエティー番組だった。メンバーたちは、学校を終えてから番組に駆けつけていた。 「毎学期、通信簿をコピーしてフジテレビのスタッフさんに提出しなくてはいけないんです。成績、出席日数、欠席日数、全部載っていますよね。成績が悪ければスタッフさんが勉強を教えてくださったり、欠席が多ければ『なぜ休んだんだ?』という指導があったり、ちゃんと学生として見てくださっていました」 学業優先とは名ばかりで芸能イベント等への出席を重視するアイドルグループも珍しくない昨今を思うと、凄まじいばかりの人気を博したおニャン子クラブが、しっかり学業と番組出演の両立を考えていたというのはちょっとした驚きだ。 1985年にスタートしたおニャン子クラブだが、生稲が番組内オーディションを受けて加入したのは翌86年6月のこと。すでにおニャン子ブームの真っ只中だった。私立の女子校に通学していたが、学校は厳しく芸能活動を認めていなかった。しかし生稲はその学校に優秀な成績で入学していたこともあって、「学業では上位を維持し大学受験もすること」を条件に、高校3年のとき、おニャン子クラブに入ることをゆるしてくれたという。