石川祐希が紡ぐ「ペルージャの物語」26年前は中田英寿が鮮烈デビュー
【日本人選手のイメージを一変させた】 W杯初出場の日本を牽引した選手として、中田はヨーロッパでも注目を浴びていた。ガウッチというのは、とにかく目立つことが大好きな人物だ。10以上のチームが中田をほしがるなか、勝ち取ったのはガウッチだった。もちろんこの移籍には、中田やその周囲の意向もあったことだろう。いきなりビッグクラブにチャレンジするより、まずはセリエAでも末席のチームでイタリアに慣れるほうがいい。中田のその後の活躍を見ると、この選択は賢明だった。 中田がデビューした日のペルージャは異様だったと、当時取材をしていたイタリア人記者は言う。小さな町が日本人だらけで、スタジアムも日本人で満杯、記者席にも多くの日本人記者がいて、まるで東京にいるようだったという。対戦相手のユベントスにはアレッサンドロ・デル・ピエロもジネディーヌ・ジダンもいたが、この日の主役は中田だった。 ガウッチは、はったりの多い人物として知られていたが、中田に関しては正しかった。中田を獲得した時、ガウッチは「これは賭けではない。確信だ」と述べたが、それは本当だった。中田はここペルージャでその才能を見せ、それまでの日本人選手のイメージ――ヨーロッパが日本人を獲得するのはジャパンマネー狙い――払拭をし、イタリアの人々に日本のサッカーが変わりつつあることを理解させた。中田はペルージャの歴史のなかで、唯一、バロンドールにノミネートされた選手ともなっている(1998年、1999年)。 中田のほかにペルージャでプレーした有名選手といえば、すぐに思い浮かぶのは、のちに世界チャンピオンとなるジェンナーロ・ガットゥーゾとマルコ・マテラッツィだろう。 闘犬ガットゥーゾは実はペルージャの下部組織育ちで、1990年、12歳からペルージャに所属している。1996年17歳でトップチームデビューを果たし、チームのA昇格にも貢献した。また、マテラッツィは1995年から2001年まで断続的にペルージャに在籍。中田とも半年間、ともにプレーしている。最後のシーズンではキャプテンも務め、12ゴールを決めてDFによるシーズン最多得点記録を塗り替え、イタリア代表デビューの足がかりとした。