能登半島地震1年:地元拠点の写真家が見つめ続けた被災地の姿
能登の写真家としての使命感
父の仕事の都合で日本各地を転々としてきた私には、輪島市にある父方の祖父母の家はお盆や正月に帰省する思い出の場所。唯一「故郷」と呼べる場所だった。 東京の大学を卒業後、北陸の会社に就職。休日に自然と足が向くのは、能登半島だった。美しい自然に囲まれた半島の海沿いをドライブして感じる潮風や、四季折々の風景に癒やされるひとときは、日々の疲れを忘れさせてくれた。そして、いつしか一眼レフカメラを持ち歩き、能登の風景や祭りを撮るようになった。自然が作り出す造形美や、心を揺さぶる祭りの情景に魅了されるたびに、「写真を通し能登の素晴らしさを伝えたい」という思いが強くなった。私が写真家を志すのは自然な流れだった。 2014年、27歳で輪島市へ移住。広告デザイン事務所を立ち上げ、写真や仕事を通じて大好きな能登半島の魅力を発信してきた。この10年間、それを「天職」と感じられる日々だったからこそ、今回の地震は積み上げてきたものを一瞬で切り裂くようで、受け入れ難い現実だった。 高さ28メートルの奇岩、珠洲市の見附島は、地震の揺れと津波で崩れ、変わり果てた姿となった。日本海に面して小さな田が重なり海岸まで続く輪島市の白米千枚田は、田んぼに幾筋もの深い亀裂が入り、水路も壊れ、深刻な被害を受けた。 「被災地の記録」を進めていく中で、「日常を取り戻す」や「復興」という言葉が程遠く感じた。テレビなどで報道される情報は時間などの関係もあり、どうしても限定されてしまう。「私たちの町の被害は伝えられていないので、写真を撮って発信してほしい」。避難者やSNSからはそんな言葉も届いた。 能登半島は私の「人生のレール」を敷いてくれた場所だ。写真を通じ、多くの人々と出会い、自分自身を成長させてくれた。私は覚悟を決め、能登半島に起きた「現実」を記録し続けることにした。
能登半島に起きた現実と1年の歩み
能登半島のさまざまな地域を訪ね、地震や津波の被害を目の当たりにした時、まるで時空が歪(ゆが)み、現実から切り離された異世界に迷い込んでしまったかのような感覚にとらわれた。その場に立った瞬間、自分がここにいること自体が正しいのか、ためらいを覚えるほどの恐ろしい現実が目の前に広がっていたのだ。 3月中旬に「のと里山海道」は輪島方面限定ながら全区間で通行可能となり、7月には全線で対面通行が再開された。交通網の復旧が進むにつれ、全国からボランティアが能登半島へ駆けつけ、支援が本格化していった。彼らの存在は被災地にとって大きな励ましであり、温かい言葉にどれだけ勇気づけられただろう。 夏になるといくつかの地域ではキリコ祭りが開催され、笑顔と熱気があふれた。 キリコ祭りは夏から秋にかけて半島各地で行われる祭り。キリコと呼ばれる巨大な燈篭(とうろう)を担ぎ出し、威勢の良い掛け声や太鼓・鉦(かね)の音に合わせ、町内を練り歩く。 各地の被災状況から、数年は能登で祭りを見られないだろうと思っていたので、不安や葛藤を抱えながらも祭りの開催に踏み切った地域の人たちの決意や強い思いが伝わってきた。祭りへの思い入れは格別なものとなって、そこに集う人々の姿には一層の輝きがあった。 キリコを担ぎながら笑い合う若者たちの姿や、地域の活気を取り戻そうとする熱意には、言葉にできないほどの力強さを感じた。それはまさに、能登の人々が未来への一歩を踏み出す象徴のようにも見えた。 私自身の家族についても少し触れると、3月下旬に両親もようやく2次避難先から「みなし仮設住宅」に入居できた。避難生活からの一つの区切りとなり、生活の安定を取り戻す小さな希望を感じた。とはいえ、ここに至るまでには多くの手続きや時間が必要で、被災者の生活再建の道のりがいかに厳しいものかを改めて実感した。 能登半島地震から半年がたつと、被災家屋の解体作業が本格化し始めた。特に夏以降、公費解体のペースが進み、石川県は11月末時点で約1万棟の解体が完了したと発表した。政府や石川県は、2025年10月までに公費解体の完了を目指しており、1万棟は解体見込み棟数の約3割にあたる。作業の進捗(しんちょく)は目に見えて加速していった。 倒壊した家屋が並んでいた場所は次々とさら地となり、かつて生活が営まれていた痕跡が失われていく光景も広がった。集落がさら地となり、草木が生い茂ることで、そこに家が建っていたことすら初見では分からなくなった場所も少なくない。今は復旧・復興の過程ではあるが、同時に地域の景観や記憶が静かに失われていくようにも感じられる。