能登半島地震1年:地元拠点の写真家が見つめ続けた被災地の姿
吉岡 栄一
2024年1月1日に発生した能登半島地震。9月には復興への気持ちを折るような豪雨災害も起きた。地域は再び前を向くことができるのだろうか。能登を拠点とする写真家・吉岡栄一さんの作品を通して、被災地の1年を振り返る。 忘れもしないあの日から、1年がたとうとしている。この1年を振り返ろうとしても、目に浮かぶのは地震発生後の混沌(こんとん)としていた能登の様子ばかり。あの時、能登で目にしたものは、あまりにも恐ろしく悲惨な光景だった。
元日に半島を襲った大地震
悪い夢でも見ているようだった。 「元日」という年始めの日に発生した、マグニチュード7.6の大地震。最大震度7を記録した揺れは、能登半島に甚大な被害をもたらした。多くの木造家屋が倒壊し、人々が守り続けてきた「日常」や生活基盤が一瞬にして奪われた。穏やかだった風景が無残に変わり果てた様子は、「現実を受け入れたくない」と思うほど信じ難いものだった。 能登を代表する観光名所である「輪島朝市」では大規模な火災が発生。珠洲市や能登町では約5メートルの津波に襲われた集落もあった。電気や水道、通信といったライフラインは途絶え、道路の亀裂や陥没、土砂崩れなどが救援活動を阻む。一時30カ所以上の集落が孤立し、被害状況の全容が把握できないまま、住民の安否も分からず、ただ時間だけが過ぎていった。 地震の影響で、能登と金沢を結ぶ大動脈「のと里山海道」が寸断され、各地の道路で大渋滞が発生。通常は自動車で片道約2時間の能登から金沢までの道のりが、10時間近くかかることもあった。また、一般車両には能登入りを自粛するよう緊急の呼びかけが行われた。 自衛隊車両が行き交い、救急車や消防車などのサイレンが鳴り響き、上空にはヘリコプターが飛び回った。一刻を争う救援活動。普段は想像もできない非現実的な状況が現実として目の前に広がり、不安と緊張で胸が締め付けられるようだった。 私の家族も被災者になった。家族全員の無事を確認できたのは、地震発生から3日後のことだった。 発災当日の元日、正月の祭りを撮影しに出掛けていた私は、いったん金沢にある妻の実家へ避難。2日に輪島市にある私の実家へ向かおうと試みたが、道路は亀裂や陥没で寸断され、車では進めなかった。土砂崩れも発生し、実家のある集落は完全に孤立。残された人たちは不安な気持ちでいっぱいだったはずだ。4日、準備をし直して車で集落に近づき、2時間かけ山道を歩いた。山を越えて家族と再会できた時の姉の驚いた表情を今でも覚えている。姉は正月休みで帰省していたところで被災していたのだった。 家族と再会した安心感の後、押し寄せたのは深い喪失感だった。あまりにも変わり果てた能登の光景を前に、「もう以前の風景は戻らない」という現実が重くのしかかった。それでも次第に心の中に「今、自分に何ができるだろうか」という問いが繰り返されるようになった。能登に生きる人間として、そして能登の写真家として、この現実にどう向き合えばいいのか。私は1月中旬から能登半島を回って、「被災地の記録」を始めていた。