ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(第3回 行為を「きちんと」やること その2)
「20世紀最大の哲学者」ハイデガーと、13世紀、曹洞宗を開いた僧・道元。 時代もバックグラウンドも異なる二人ですが、じつは彼らが考えていたことには意外な親近性があったのではないか? 哲学と宗教という異なる「探求」の道が一瞬、交わったときに顕らかにされる「真理」とは? ハイデガー哲学の研究者・轟孝夫と曹洞宗の老師・南直哉によるスリリングな対話! 【画像】「机」はいつどのようなときに机なのか?…哲学者と老師のスリリングな対話!
違和感からの出発
南直哉(以下、南):『正法眼蔵』は明治以後、日本の思想界で急にもてはやされるといいますか、注目を浴びるようになりましたが、むべなるかなというところはたしかにあります。西洋の形而上学に対する疑念みたいなものが芽生えてくると、最初から「形而上学」というものに対して否定的だった仏教の言説の影響力が間接的に及ぶような気がします。直接読んでいるかどうかということではなく、思考の形態が似てくるのではないか。 轟孝夫(以下、轟):ハイデガーの出発点にはやはり神がありました。ただ、ハイデガーの直観として、人間にとっては何か人間を超えたものというか、人間が意のままにできないもの、むしろそれによって人間の方があらしめられている何かがあるという感覚が最初からあった。それをまずは、神という形で考えた。それがキリスト教の神、あるいはカトリックの神ではうまく表現できていないというところから、そもそも出発してるんです。 南:道元禅師が「悟り」という言葉を否定したことに似ていますね。教学の中で語られる神にとても違和感があったのだろうと思います。仏教で言えば見性(けんしょう)ですね、見性に対して道元禅師があれだけ批判的だったのも、その考え方が仏教を恐ろしく単純化して、本来、捉えなければならないものがその言葉では全部落ちてしまうと考えたからだと思うんです。 ハイデガーも従来の「神」という言葉、カトリックあるいはキリスト教の中で語られていた語り口では人間にとって決定的に重要な「神」の意味を取りこぼすとすと思ったのではないでしょうか。 轟:そうなんです。人間にとっての超越的なもの、他者性をうまく捉えられていないのではないかと。 南:言語化するということは、ある意味でコントロールできると錯覚することですから、ある種の支配ですよね。それが科学にも通底するわけで。 だが「所有する」、「支配する」という考え方では対象は取りこぼされざるを得ない。つまり言語とは根本的に対象を取りこぼす宿命にある。「この机」、「あの机」と言っても「この」も「あの」も他の対象にも使える以上、言語には決して言いたいことは言えないという感覚があったと思うんです。それを「言えている」と錯覚すると、やばい話になるんじゃないか。 「神」も「悟り」もまさにそうで、今までのコンテクストを、まるごと信じ込んでやってると、何か致命的な部分が失われる。そしてそれを失ってしまうと、人間が生きているということ、「存在する」ことを傷つけていくんじゃないかという気がするんです。