誰がラムセス3世を殺したのか? ついに解かれた古代エジプト「3000年の謎」
瀬戸際だったラムセス3世
研究者たちは、このクーデターが王位継承権を変えなかったことを知っている。ラムセス3世の主妃ティティの息子がラムセス3世の後を継いだのだ。そのため、研究者たちはこの陰謀を、側妃が息子に権力を移そうとして失敗に終わった試みだと考えていた。 しかし、ティイはどのようにしてこれほど多くの王室関係者を説得し、危険な権力争いに巻き込んだのだろうか。もしラムセス3世が殺されていなかった場合、このクーデターがラムセス3世の治世を不安定にしたのかどうか、歴史家たちは疑問を抱いている。 ラムセス3世は、紀元前1186年から紀元前1155年までの在位中、エジプトで最も権力のある人物だった。しかし、後の歴史が明らかにしているように、彼は最後の偉大なファラオだった。最終的に王位を継承したティティの息子ラムセス4世が受け継いだのは、弱体化した王国だったのだ。 ラムセス3世の治世中、エジプトは侵略や経済的混乱、さらにはラムセス3世の法外な墓を建てる任務を負った墓職人たちの不満から起こった人類最初のゼネストなどの国内問題に直面した。 「後宮の陰謀」がラムセス3世の没落を招いたのだろうか?
ラムセス3世の墓が見つかる
パピルス文書が解読されてから数十年後の1886年、トレジャーハンターたちはこの陰謀に関する驚くべき証拠を発見した。ラムセス3世の墓だ。 しかし、発掘者たちが墓の中でのラムセス3世の位置を正確に記録しなかったことが、後に考古学者たちを苛立たせることになる。その墓には他のミイラも含まれていたため、ラムセス3世の死因を示唆する重要な証拠が失われてしまった。 ラムセス3世と特定されたミイラからも死因はわからなかった。せっかちな観衆に囲まれた収集家たちは、すぐにラムセス3世の包帯をほどいたが、遺体には傷跡が見られなかった。 さらに混乱を招いたのは、ラムセス3世と一緒に埋葬されていたもう一体のミイラだった。悲鳴をあげているような、歪んだ顔をした小さなミイラだ。 儀式用の衣服に身を包まれ、入念に防腐処理された他のミイラと異なり、簡素な羊の毛皮で包まれ、身元を示す碑文もなく、無造作に墓の中に置かれていた。 歴史家たちは、この謎めいた叫ぶミイラの身元を特定することなどできないだろうと考え、事件は解決したと考えた。ラムセス3世は共謀者たちに殺されておらず、陰謀は側妃が後宮で権力を行使しようとしただけだったと片付けられた。 考古学の技術が進歩しても、この陰謀についてそれ以上わかることはなかった。1960年代に研究者たちがX線装置を使ってラムセス3世のミイラの画像を撮影したときも、暗殺の証拠は見られなかった。 しかし、考古学者のスーザン・レッドフォード氏がこの話に興味を持ち、2002年にラムセス3世の墓の美術品を再調査した結果、陰謀に関する新たな見解が明らかになる。 レッドフォード氏は、墓の壁に描かれた複数のレリーフがラムセス3世の後継者を示していることに気付いた。しかし、あるレリーフに異なる王子たちが描かれていた。レッドフォード氏は後者をペンタウアーの威信と母親ティイの王室の地位を示すものと解釈した。 ティイが側妃でなく主妃であったなら、彼女の息子には王位継承権の根拠があったはずだ。これは、なぜ側妃がこれほど多くの有力な共謀者を集めることができたのかという長年の謎の答えになるだろう。