「杉原千畝の10倍、シンドラーの50倍」もの命を救った日本人――投獄経験もある「名もなき英雄」が成し遂げた敗戦直後の奇跡を追う
「不思議な人間力」で集団脱出工作を完遂
こうした危機的な状況を前に、松村は南朝鮮の京城(現ソウル)に向けて集団脱出計画を構想した。1946年2月になると、単身で京城まで出向き、また北朝鮮に戻って脱出ルートの偵察を敢行。その行程の要所では北朝鮮の保安隊を訪ね、日本人の南下に対する了解と協力を依頼するなどしながら計画を進めていった。 ソ連軍や北朝鮮の保安隊などが目を光らせるなか、松村はどのように集団の日本人を移動させることを実現させていったのか。 詳しくは本書を読んでもらうほかないが、端的に言って、松村は奇抜な策を弄したわけではない。 たとえば、咸興日本人委員会を通じて、咸興市保安署から旅行許可証を発行してもらう。さらに南下通行証明書を得る。それを持って移動した場所で、また地元当事者の助力を得るよう交渉する。日本人内でも委員会などの手続きをし、北朝鮮やソ連軍などの相手でも書類などの手続きを欠かさない。そんな手続きを必ず踏んでいるのが特徴的だ。 そして、試験的な集団移動が成功すると、それを継続し、人数を増やしていく。同年4月になると集団移動に利用する鉄道で日本人専用の輸送車両が1両増結する事態にも発展している。こうした記述が続くことに、読者は驚かざるを得ないだろう。 松村はなぜそんなことができたのか。 著者はいくつかの背景を示唆している。たとえば、戦前松村には共産党への協力など左翼活動への参加があり、ソ連や北朝鮮側の理解が得られやすかった可能性がある。また、中国語や朝鮮語を流暢に話すなどコミュニケーション力が高かったという理由もある。 だが、そうしたこと以上に、松村には「人間力」があったことが指摘されている。著者はこう書いている。 「それにしても、ソ連軍によって捕虜収容所に護送されている途中に逃走したにもかかわらず、そのソ連軍によって嘱託として雇われることになるとは、混乱の状況だったとはいえ、松村の不思議な人間力を感じざるを得ない」 そんな表現に著者の松村への温度感も感じられるだろう。