「杉原千畝の10倍、シンドラーの50倍」もの命を救った日本人――投獄経験もある「名もなき英雄」が成し遂げた敗戦直後の奇跡を追う
「このままでは日本人は死に絶えてしまう」――奮起した一人の男
終戦から間もなく、ソ連軍と米軍の流入によって朝鮮半島は分断され、北緯38度線で事実上の国境ができた。当時、朝鮮半島には約70万人の日本人(在留邦人)が滞在していたが、大きな混乱に見舞われることになった。それまで“外地”として日本の支配下にあったのに、日本が統治権を失うと突如“外国”となった。在留邦人は急遽帰国することを迫られた。 ただ、朝鮮半島の南北では事情が異なっていた。 米軍が統治する南朝鮮では、終戦から数カ月後には日本人約45万人が帰国の途につき、1946年春までにほとんど引き揚げが完了した。一方、ソ連が統治する北朝鮮では日本人の移動は制限された。終戦当時、北緯38度線以北には約25万人の在留邦人がいたとされる。 だが、北朝鮮にそのままとどまる選択はありえなかった。 当時の北朝鮮は、乏しい食糧事情に加え、治安も悪かった。終戦後、日本の軍や行政関係者は民間人を見捨て、我先と逃げ出した。一方で、支配のためにやってきたソ連兵は略奪、暴行の限りを尽くした。日本人の家から物品を根こそぎ奪うとともに、女性に対して凶暴性をむき出しにして襲いかかった。 さらなる苦難も襲った。日本人のいる施設では発疹チフスや再帰熱などの感染症が広がったのだ。次々と日本人が倒れていった。 「このままでは日本人は死に絶えてしまう」 そう危機感をもったのが、当時34歳の松村義士男(ぎしお)という民間人だった。 日本海に面した咸興(かんこう)市にいた松村は、同士とともにソ連軍と朝鮮側に医療などの改善を訴えた。さらに1945年12月、松村は旧い組織を改編し、咸興日本人委員会を設立。朝鮮側やソ連軍の了解を得て、在留邦人のための医療や食料改善の活動を始めた。 そうした活動の先にあった狙いが、在留邦人の日本への帰還だ。もちろん簡単ではなかった。北朝鮮から南朝鮮に入るには北緯38度線を越えるしかないが、そこへ近づくには鉄道などに乗る必要もあるうえ、各地ではソ連軍や北朝鮮の保安隊が目を光らせていた。しかも、在留邦人の数は数万人単位だ。 一方で、厳冬の1946年1月、咸興から南に30キロの地点にある収容所は悲惨を極める状況だった。朝鮮人側の調査報告にこうある。 〈老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめく彼らは皮と骨となり、足は利かず立つ時は全身を支えることも出来ず、ブルブルと震え、子供達は伏して泣き、無数の病める半死体は呻き乍ら叺(筆者注:かます=藁むしろでできた袋)の中に仰臥して居り、(中略)実に地獄の縮図以外の何物にもあらず〉