板東英二さんの人生から学んだこと…脱税指摘から暗転、あの芸能事務所の社長からは“裏切り”の仕打ちも
筆者が見聞きしたエピソードでつづるシリーズ。落合博満さんをメーンに紹介していますが、今回は板東英二さんの番外編。表舞台から消えて久しい元中日の投手です。 ◆板東英二さん、中スポ一面に掲載された写真にとんでもないものが…【写真】 ◇ ◇ 現在どこでどうしているか筆者も消息を知らない。本人の意思なのだろうから探すつもりもない。その板東さんから学んだことがある。 20年ほど前、地元テレビ局のロケ取材で出会った。その時、「調べてもらいたい写真がありましてね。中日スポーツに家でくつろぐ写真が出た後、とんでもないことになったんです」と言われた。何でも背後にケシの花が映っており、警察だか保健所だかが来て大騒ぎになったらしい。 アヘンの原料であるケシは、法律で厳しく栽培が規制されている。紙面(1969年5月)に載ったのは夫人の実家でくつろぐ姿。庭にケシがいつの間にか自生していたらしい。そしてこの写真は後日、バラエティー番組で使用されたそうだ。 中日では投手だった板東さんのニックネームは「ジュウシマツ」。背番号14に加え「とにかくピーチクうるさかったから」と当時の同僚は言った。引退後にこの話術が生き、ラジオDJ、「燃えよドラゴンズ!」をヒットさせた歌手、タレント、さらには俳優として成功することになる。だが、脱税を指摘されすべては暗転し、仕事は激減した。そうなった後も何度か会った。ある時、こう言った。 「困ったらいつでもいらっしゃい、と言われているんですよ。今度行ってこようと思っています」。会おうとした相手は、いまは亡くなってしまったが、誰もが知る芸能事務所を率いたあの人だった。 後日、板東さんは何度も首をかしげながら「事務所に行ってきたんですよ。そうしたら受け付けで『そんな方は知らないと申しております』と言われてねえ。そんなはずはないんだけどなあ。おかしいなあ。おかしいなあ」と繰り返し言った。 軽妙な語り口からは想像できないが、疑うことを知らない本当に純粋な人なのだと思った。だから心の中で思ったことはとても口にできなかった。世の中、利用価値や損得で判断されるものなのだと。 さて落合さんは横柄な態度をとったわけではないのに、財界人を不機嫌にさせたことがある。カネや地位では値踏みしない。あの芸能事務所の社長のように簡単に約束もしないし、調子のいいことも言わない。ここが好き嫌いの分かれるところでもあると思う。 ▼増田護(ますだ・まもる)1957年生まれ。愛知県出身。中日新聞社に入社後は中日スポーツ記者としてプロ野球は中日、広島を担当。そのほか大相撲、アマチュア野球を担当し、五輪は4大会取材。中日スポーツ報道部長、月刊ドラゴンズ編集長を務めた。このシリーズが中日スポーツでは最後のコラムとなる。
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