藤原氏の同族の僧・壱演、かつての栄華はなくとも清廉に生き、皇族や大臣のために祈り、水の上で亡くなった生涯
(歴史学者・倉本 一宏) 日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、僧の壱演です。 【画像】中臣鎌足から壱演までの系図 ■ 三十三歳で出家 僧を扱うのは久しぶりだろうか。『日本三代実録』巻十四の貞観(じょうがん)九年(八六七)七月十二日己酉条は、壱演(いちえん)の卒伝を載せている。 権僧正法印大和尚位壱演が卒去した。壱演は、右京の人である。俗姓は大中臣朝臣。名は正棟(まさむね)である。曾祖父清麻呂(きよまろ)は、宝亀年中に右大臣となった。祖父諸魚(もろな)は、参議正四位上左大弁近衛大将神祇伯であった。父智治麻呂(ちじまろ)は、従五位上備中守であった。壱演は、幼くして清警で、孝順天至であった。弱冠にして父を喪い、ほとんど死にそうになった。服喪が終わって学に志し、有能を称された。 弘仁(こうにん)の末年、抜擢されて内舍人となった。前世で善根を植え、鳥籠のような現世を出る気持ちが有った。二兄が相継いで夭亡し、しきりに家の喪に遭うに及び、心の動揺が繋ぎ難く、遂に剃髪して沙門となった。 承和(じょうわ)の初年、具足戒を受け、金剛般若経を読むことを業として、未だ甞て退転しなかった。弘仁の廃皇太子(高丘[たかおか]親王)は、入道して僧となり、真言宗の阿闍梨となった。その名は真如(しんにょ)である。僧侶の中で壱演法師は高くそびえて傑出し、僧侶の棟梁とすべきであると聞き、ここに住している院の側に、別に一房を構え、壱演を招いて住まわせ、真言密教を授けた。壱演は受けて深く会得し、また遺すところはなかった。ところがなお、金剛般若の業に飽きて嫌になることはなかった。 時に皇太后(藤原順子[じゅんし])の御身体が病悩した。壱演を招請して、看病に侍らせた。黙念して感じるところがあり、医薬は方策を停めた。壱演は居処を定めず、去留は意に任せ、或る時は市井の中に寄寓し、或る時は流水の汀に居止した。かつて小舟に乗り、波に任せて浮き漂い、河陽橋の辺りに到って、川の畔に留まり住んだ。 ここに一人の老女がいた。居宅を退いて壱演に与えて云ったことには、「願わくは精舍を建てて、その中に住んでください」と。この地は、歴代商売の店で、魚塩の利を逐った処である。壱演は檀越の施した地を受けて、平らにして小堂を立てようとした。地中に上古の朽損した仏像を得た。形体は備わらず、手足は折れていた。事情を天子(清和[せいわ]天皇)に奏聞した。詔が有って、木工寮に堂舍を築造させ、門額を賜って相応寺といった。壱演は迹を留め、坐禅修念し、識浪を静める地とした。壱演は黒土を集め、方丈の壇を築き、尊影を安置した。壇上は白く変じ、あたかも粉を塗ったようになった。観る者はこれを怪しみ、欽感しない者はなかった。 貞観六年、太政大臣(藤原良房[よしふさ])は疾病に倒れて重態となり、百方手を尽くしても効験はなかった。壱演を招請して、その加持を行なわせた。痛悩はたちまち除かれ、時に効験を得た。天皇は歓喜し、甚だ崇敬した。明年、詔して権僧正とした。壱演は辞表を上呈して固辞し、遂に許さなかった。定業には限りが有り、小疾は免れ難かった。ここに小船を用意させ、水上に浮かび、にわかに遷化した。時に行年は六十五歳。諡して慈済(じさい)といった。 大中臣氏の者を扱うのもはじめてであった。六世紀以来、倭王権の神祇を掌ってきた中臣氏は、鎌足(かまたり)の「大化改新」における活躍によって、天智(てんじ)八年(六六九)に死に臨んで大織冠と大臣の地位と藤原(ふじわら)の氏称を賜った。それ以降、鎌足とは別系統の中臣氏も藤原氏を称したが、文武(もんむ)二年(六九八)に鎌足の子の不比等(ふひと)の系統以外はすべて中臣の氏称に復した。 その後、光仁(こうにん)朝に右大臣に上った清麻呂(母は鎌足の女)は神護景雲(じんごけいうん)三年(七六九)に大中臣の氏称を与えられ、延暦(えんりゃく)十六年(七九七)と同十七年の官符によって、清麻呂の系統はすべて大中臣の氏称を許された(『国史大辞典』による。関晃氏執筆)。 壱演は、清麻呂の曾孫、諸魚の孫、智治麻呂の子として、延暦二十二年(八〇三)に生まれた。俗名は正棟である。諸魚は参議にまで上ったものの、かつての地位からは比べようがなかった。そして父の智治麻呂が若くして備中守で死去したせいで、その子の世代には暗雲が垂れこめた。 それでも清廉であった正棟は、学に志して有能を称され、十代で内舎人になった。しかし、兄二人も相次いで死去してしまった。この兄たちは官位が残っていないことから、五位に叙爵される前に死去したものであろう。世の無常を感じた正棟は、承和二年(八三五)に三十三歳で出家入道し、壱演と称した。薬師寺の戒明(かいみょう)の室に入り(これを入室の弟子という)、東大寺で具足戒を受け、真如法親王(「平城[へいぜい]太上天皇の変(薬子[くすこ]の変)」で廃太子された平城皇子の高丘親王)から真言密教を授けられた。 天性無欲な壱演は居処を定めず、市井の中に仮住まいしたり、川の畔に住んだりした。小舟に乗り、波に任せて浮き漂い、河陽橋(現京都府大山崎町大山崎)の辺りで川の畔に留まり住んだこともあった。桂川・鴨川、宇治川、木津川が合流する北岸である。寺地は東は橋道、北は大路、南は河崖とされている。 そこに一人の老女がいて、居宅を退いて壱演に与え、ここに精舍を建てて、その中に住むことを請うた。そこは商業地であったが、壱演はその地に小堂を立てようとした。 すると地中に上古の朽ち腐った仏像があった。姿は完備しておらず、手足は折れていた。事情を清和天皇に奏聞すると、詔が有って、木工寮に堂舍を築造させ、門額を賜って相応寺と称した。なお、承平五年(九三五)に土佐守の任を終えて上洛してきた紀貫之(きのつらゆき)は、「相応寺のほとりに、しばしふねをとゞめ」た。「このてらのきしほとりに、やなぎおほくあり」、「このやなぎのかげの、かはのそこにうつれるをみて」、歌を詠んでいる(『土佐日記』)。 壱演はそこに居を定め、坐禅する地とした。黒土を集め、方丈の壇を築き、仏像を安置すると、壇上は白く変じたという。 貞観二年(八六〇)、皇太后藤原順子の病悩に際してこれを看病し、貞観六年(八六四)には太政大臣藤原良房の病気平癒の加持を行ない、その功によって翌貞観七年(八六五)に律師を経ずに権僧正を賜った。壱演は辞表を上呈して固辞したものの、許されなかった。同年には超昇寺の座主に任じられている。 しかし二年後の貞観九年、疾病に罹ってしまった。壱演は七月十二日に小船を用意させ、水上に浮かんで、すぐに遷化した。八月二十八日に勅によって薬師寺において壱演の供養が行なわれ、翌二十九日、慈済と諡された。 死期を悟った壱演が水上での死を選んだとすれば、後世の補陀落渡海の先駆けとも言えようが、どのような最期であったのかは、定かではない。
倉本 一宏