邦画サントラがほとんど無かった1970年代、『ゴジラ』のレコードは飛ぶように売れた…その「驚きの舞台裏」
邦楽サントラレコードがほとんどなかった時代
――その頃は邦画の過去作品のサントラレコードはまだほとんど無いに等しい時代でしたよね。 あの頃の映画音楽といったら『エデンの東』であり、『太陽がいっぱい』だったり、基本は洋画でしたからね。邦画のサントラなんてのはまずあり得なかったんだけれども、幸いに東宝レコードには売れてる歌手が誰もいなかった。当時レコード会社が20社くらいある中で、ウチは下のほうだったんですよ。東宝の人気俳優はたくさんいたけど、既にほかのレコード会社と歌手契約していてウチでは出せなかったんです。 そんな中で、月に一度の編成会議でサントラ企画をあげたんです。それにあたって上司からの指示で東宝映画のプロデューサーだった貝山(知弘)さんに相談しました。『狙撃』とか『雨のアムステルダム』とかスタイリッシュな作品を作っていて、音楽やオーディオ評論でも活躍された方です。 そうしたら、「それ面白いよ。 黛君のところへすぐ行こうよ」って言われて、当時永田町に住んでらした黛さんを訪ねました。それで趣旨を話したら、「映画音楽っていうのは作ったらそのまま終わっちゃうものだと思ってたんだけど、それをレコードにしてくれるのがとっても嬉しいです」って言ってくれた。 さらに「ところで君、それは東宝だけで作るの?」 と言われましてね。僕は撮影所に並んでたテープをそのまま借りてきて作ろうと安易に考えてたんだけど、黛さんは「僕はあの頃、今村昌平作品とか、日活でも松竹でも音楽をやってたから、そういうのも入れようよ。僕が連絡しとくから」って言われて。
『伊福部昭の世界』は反響がすごかった
――企画としては一気に膨らむことになったんですね。いろいろなご調整などは大変になったかと思いますが。 珍しかったんでしょうね、大新聞とかメジャーな媒体が採り上げてくれて。当時の東宝レコードではアルバムは2000枚売れればまず合格だったんだけど、それよりもうちょっと売れちゃったりして。既にある音源だから費用対効果も良いわけですよね。そこでキネマ旬報の前年に公開された映画のリストが載る号を何年分か調べて作曲家の名前を書き出して、その方々に手紙を書いたんですよ。 それで返事をいただいて具体的になった人から作っていったんです。 最初は黛敏郎さんで、次が林光さん、その次が佐藤勝さん、そしてその次が伊福部先生になりました。 先生は『ゴジラ』の作曲家っていう程度しか僕はまだ知らなかったんですよね。ところがレコードが出てみると営業から、「なんかお前の作った伊福部昭のレコードが新宿の帝都無線(=紀伊國屋書店の中にあったレコード店)で1位になってるぞ」って言われたんです。それまでの3人の方のよりも3倍ぐらい売れたんですよね。で、そうしたら会社にファンたちがたくさん来て、何々という雑誌で紹介させてくださいとかすごい反響があった。 で、その中に竹内博君がいたんですよ。ペンネームは酒井敏夫だったけど。映画や漫画評論家の小野耕世さんも彼のことを評価していて、その竹内君が「ゴジラで1枚作りましょうよ」って提案してきたんですね。まだ家庭用のビデオもそれほど普及してない頃だから、効果音とかセリフも入れて音だけでゴジラの世界を作れないかなっていうのはアイデアとしてはあったんですよ。そうしたら竹内君が具体的に選曲してきて、セリフもかっこいいのありますよって、『キングコング対ゴジラ』でヘリコプターが寄ってきて「Oh、It's Godzilla!」て叫ぶところ。