永遠のケービン④ 9本のコンクリート柱 帰ってきた令和阿房列車で行こう 第二列車
ヒージャー(山羊(やぎ))の刺し身との相性も抜群だった泡盛に二日酔いなしは、本当らしい。 【地図でみる】沖縄軽便鉄道の走行区間 すっきり目覚めた朝、空は晴れ渡っていた。 前夜、「明日は晴れますよ」と予言した南海和尚の言葉通りとなり、さしもの雨男・サンケイ1号君の神通力も和尚の念力にはかなわなかった。 さぁ、軽便鉄道の遺構がある与那原(よなばる)へ急ごう。 実は、総延長約50キロに及んだ沖縄県営鉄道の駅舎はほとんど破壊され、車両は1両も現存していない。 昭和20年3月から始まった沖縄戦が、いかに苛烈だったかを物語っているが、激しい空襲や砲撃から辛うじて難を逃れた機関車やガソリンカー、客車も戦後、すべてスクラップにされてしまった。 米軍占領下の厳しい状況下で、くず鉄は貴重な資源だったからだ。米軍は道路整備を優先し、軽便鉄道の再建は夢のまた夢だった。沖縄に再び「鉄路」が復活したのは、「ゆいレール」が那覇空港―首里間に開業した平成15年のこと。既に戦後58年が経(た)っていた。 そんな中、与那原線の終着駅である与那原駅は、砲撃で大破したものの、鉄筋コンクリート造りだったため柱や壁が残った。これを使って終戦直後に建物を改修、町役場として使われた。役場の移転後は、JAおきなわ与那原支店としてつい最近まで現役だった。 さすがに老朽化が進み、平成25年に取り壊されたが、翌年、与那原の人々の熱意で駅舎が復元され、資料館になっているという。 那覇の中心部から与那原まで10キロ足らず。1号君の愛車・ケービン号に乗って順調に目的地に近づいたが、車は大通りから脇道にそれ、ナビはさらに車1台やっと通れる細い道を曲がるよう指示する。 「こんなところに本当にあるのかなぁ」と1号君がつぶやいた瞬間、左手の歩道に9本のコンクリート柱の跡が、忽然(こつぜん)と現れた。 あった、ありました。 米軍の猛砲撃に耐えに耐えた柱は、墓標のように見えた。 100円也(なり)の入館料を払うと入場券の代わりに「與(よ)那原より那覇ゆき 18銭」と印字された硬券を渡された。