老後の生活が豊かな人に共通する「お金の使い方」
「どんなに財があっても、欲が多ければ貧しい」
幅22メートル、奥行き10メートルほどの敷地に、白砂を一面に敷き詰め、15の石を置いただけの庭。石にむしたコケの緑だけが色彩らしい色彩で、あとは白砂につけられた箒目だけがわずかな動きを感じさせる......。世界的にも名高い、龍安寺の石庭です。日本の簡素美を象徴する庭だということもできるでしょう。 この庭の前にたたずむと、美しさを感じるのに花も要らなければ、木々の茂りも必要ないことが心にひたひたと迫ってきます。この庭で心を洗い、さらに歩を進めれば、茶室蔵六庵の路地に、もう一つの日本人の精神性を象徴する「知足の蹲踞(ちそくのつくばい)」が据えられています。 蹲踞とは、茶室の前に据えられた手水鉢のことで、ここで手や口を清めてから茶室に入るのが作法です。ここの蹲踞は時計回りに上から一見、「五」「隹」「疋」「矢」と読める字が彫り込まれており、手や口を清める中央の四角い大きな掘り込みを「口」という「へん」や「つくり」に見立てて、「吾唯足知(吾唯足るを知る)」と読むのです。 この「足るを知る」という精神は、仏教の教えの真髄だといっても過言ではありません。釈迦はさらに、「足ることを知る者は、貧しくても実は豊かであり、どんなに財があっても、欲が多ければその人は貧しい」と言っています。 私たちが老いに向かうといっても、ある日いきなり老いていくわけではなく、それまで暮らしてきた住まいもあれば、暮らしの道具もある。衣食住のうち食はその都度求めなければならないでしょうが、衣や住は、いまあるもので十分足りているはずです。 いまあるもので「我慢する」のではなく、いまあるもので「充足する」。その切り換えができるかどうかが大切です。すなわち、老後を豊かなものにできるかどうかは、年金の額や資産の多少などよりも、その切り換えができるかどうかにかかっているといえるでしょう。「あれも欲しい、これも欲しい」という思いにとらわれているかぎり、永遠に充足は訪れません。