インパール作戦から80年…今も旧日本軍の兵士を待つ女性がいた!内乱下のミャンマー”白骨街道”ルポ
「キムラさん、私は今もここにいます。早くここに戻ってきて。キムラさん、愛しています」 生々しい…!内乱下に残る旧日本軍の兵器 今年は、旧日本軍による「インパール作戦」が行われて80年目の節目にあたる。3月、筆者はインパール作戦と深いかかわりを持つ”白骨街道”をたどり、ミャンマー北西部のカレーミョから近郊の小さな村へ向かっていた。4年前にその村で出会ったある女性との再会を果たすためである。 彼女の名前はドラ・チーさん(当時93)。第二次世界大戦中、現地の病院でインパール作戦に参加した旧日本軍の看病をしていたという。冒頭のセリフは、出会った際に彼女の口をついて出た言葉だ。 今でも“無理なプラン”の代名詞として揶揄されるインパール作戦は’44年3月から同年7月まで行われた。ビルマ(現・ミャンマー)の国境日付近にあった旧日本軍の基地からアラカン山系を越えて、イギリス軍の占領下にあるインド北西部の街、インパールの制圧を目的としたものだ。彼らに与えられた食糧は3週間分だったという。9万人の兵士たちは470㎞もの過酷な道のりに挑んだものの、イギリス軍の猛攻と食糧不足により作戦は空中分解。戦地に取り残された兵は来た道を戻ろうと試みたが、3万人以上が死亡、4万人以上が飢餓や病気、イギリス軍の攻撃の餌食となった。 ミャンマー北西部にあるティディムロードは、地元住民から”白骨街道”と呼ばれている。当時、この道沿いに飢えと病気で亡くなった旧日本軍の兵士たちの亡骸が所狭しとあったという。やがて、彼らの亡骸は骨となった。”白骨街道”の「白骨」は、道に沿うように残された彼らの遺骨のことだ。 出会った当初、ドラ・チーさんはずっと寝たきりで、家族による自宅介護を受けていた。弱々しい雰囲気の彼女だが、77年前に交流した旧日本軍の話を訪ねると、瞳に力強い生気がみなぎっていくのが分かった。 「当時の日本人とはたくさんのことを話しました。日本語も教えてもらいましたよ。例えば『ムスメ』『オカアサン』『コメ』……」 当時、彼女は16歳。ビルマが日本により攻略された年に現地の病院で世話係として、インパール作戦に参加する直前の旧日本軍の兵士たちと交流していた。そのなかで一人、忘れられない人がいたのだという。 「彼の名前は“キムラさん”。下の名前は……分からなかった。私たちは“キムラシンチョー”と呼んでいたわ。 当時の彼は28歳。とてもハンサムで、よく私にビスケットやお菓子をくれた思い出があります。私も手料理を持って行ったりして、そのたびに優しく話しかけてくれて、とても好きでした」 2年後、インパール作戦が始まり“キムラさん”も作戦に参加することになる。しかし、この作戦は前述のように悲惨な結果を迎えた。 ドラ・チーさんによると彼は命からがらこの地に戻ってきたものの、飢えと病気でボロボロになっていたという。傷も癒えぬまま日本に帰国することになった“キムラさん”との別れ際、また再会しようと約束したものの、その約束が果たされることはなかった。 「本当に会いたくて会いたくて毎日泣いていました。その後も3年ほど彼を待っていたけど、小さな村で生きていくためには結婚して身を固めるしか道はありませんでした」 今もなお第二次世界大戦の傷跡が残る現地は、旧政権を握っていた軍部のクーデターを発端とする内戦の真っただ中にある。彼女との出会いから4年、70年以上“キムラさん”に思いをよせ続けるドラ・チーさんの現在に迫った。 ’24年3月の早朝、カレーミョの街からドラ・チーさんの住む小さな村に向かった。カレーミョでは連日、軍と民主化勢力が骨肉争いを繰り広げており、夜明け前から日のあるうちは山岳部で、夜間には街中での銃撃戦が日常となっていた。照り付ける日差しと、いつ戦闘が始まるかわからない緊張感が相まって、額にじっとりと汗がにじむ。この日も午前中だけで10回以上の爆撃音が響いていた。 国軍兵士が15人ほどが詰め込まれた深緑のダンプカーが2台、けたたましいクラクションを鳴らし、白い土埃をあげながら猛スピードで走りすぎていく。道行く人たちはなるべく目を合わせないように下を向いていた。街には若者と年配者が多く、30~40代ほどの男性がほとんどいなかった。戦闘に参加しているのだろうか。 車に揺られること15分、道をふさぐように軍の検問が行われており、まだ20代前半に見える若い軍服姿の男が太い葉巻をくわえながら私の車両に近づいてきた。まばたきもせず車内を覗き込み、威圧的に睨みつけてくる彼の目は血走っていた。 「どこへ行く? なんの目的だ。荷物の中を見せろ。カメラは持っていないだろうな?」 3分ほどの、だれひとりニコリともしない緊迫感のある問答の末、ようやく検問をパス。 その後、しばらく車を走らせふと周りを見渡すと、広大なひまわり畑が広がっていた。 街を出発して約1時間、ようやく村に着くと女性が3人と男性が1人、それから子どもたちが3人が快く迎えてくれた。彼女たちはドラ・チーさんの家族だ。ドラ・チーさんの孫にあたるAさんともあいさつを交わすと、一人の少女が駆けよってきた。 「この子は私の娘で、祖母が名づけました。“キムラ・チブー”と言います。よほど彼を忘れたくなかったんですね」 Aさんは感慨深げに微笑み、肌を保護する塗り薬の“タナカ”を塗らずに外に出た娘を軽く諭した。ドラ・チーさんの近況について尋ねると、彼女は悲しげにうつむいた。 「遠いところからわざわざありがとうございます。せっかく来ていただきましたが、ドラ・ チーはもう……」 残念ながら彼女はこの世を去っていた。案内してもらった彼女のお墓は、村から歩いて5分ほどの軍の詰所のすぐ近く、側道を入った集団墓地の一角にあった。普段は軍の監視の目が厳しいため、親族でもなかなか入ることができないという。 「ご覧の通り、草も刈ることもできなくて、申し訳ないのですが……」 Aさんが、生い茂った草をかき分けると亡くなった日付が確認できる。「2020年11月。享年94歳」――。 ドラ・チーさんが亡くなったとき、まだ3歳だったキムラ・チブーちゃんは大好きなひいおばあちゃんの死が受け入れられず、何日も泣いていたそうだ。ようやくそのことが理解できた今、彼女は6歳になった。現在小学校に通う年齢ではあるものの、残念ながら学校が軍に接収されているため、ずっと家で兄弟たちと過ごしている。自身の名前に日本人の名前が入っていることについてどう思うか尋ねてみた。 「とても嬉しい。日本のことは好きですから……」 そう言うと、恥ずかしそうに母の陰にかくれた。80年のときを経て旧日本軍のいた痕跡はこんな形で残されていた。彼女が思いを寄せていた「キムラさん」とはどんな人だったのか。彼は日本に帰ってからどのように過ごしたのか。そして遠いビルマの地に残した彼女のことを覚えていたのだろうか? 東京から約4600㎞、ミャンマーは第二次世界大戦の傷跡が消えないまま新たな戦火に見舞われ続けている。 写真・文:武馬怜子
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